ボーナスでも何でもない時期になまえちゃんが急に「今、お金あるから二人だけでちょっといいところに泊まろっか」とそう言った。しかもすでに宿は取ってあるらしく日程は今週末らしい。
突然のことでもちろんびっくりしたけれども、一番びっくりしたのはとった宿が一泊ウン万円もするとってもとっても高くていいところだったこと。ゼロの数を数えてから、パチンコの玉を思い出した。この前クソ政権の二人が僕らの有り金を全部かっさらってまでして使った結果、大負けしてすってきた金額くらいだ。きょとんとして、パンフレットを見ている僕をみるとなまえちゃんは「お部屋についてる露天風呂からは海も見えるんだよ、楽しみだね」とそう言って僕の言いたいことなんて分かってはいるけれども触れないで、楽しみにしていることだけしか触らなかった。
なまえちゃんと二人きりで出かけることはこれが初めてじゃなければ、なまえちゃんにお金を出してもらって楽しいことをするのも今回が初めてじゃない。むしろ数えきれないほどにある。今まで小出しに出してきてもらっていたから罪悪感は多少しかなかったものの、今回はありえない金額だったからさすがにちょっとやばいなと思ってとりあえずトド松からスマホを借りた。
せめてご飯のお金……と行かなくても、運賃の分は出さないとと単発でバイトを探したけれども思うようなものは見つからなかった。仕方なしに、俺は松代から前借りしたお金を全部叩いて十四松と一緒にパチンコに向かう。
十四松は何に使うのか聞いては来たけれども、猫の餌だよと見え透いた嘘には何も言わないで「それならいっぱい勝たないとね」とだけ言ってくれた。
結論から言うと、少しだけ勝った。物分かりがいいのか唯興味がないのかわからない十四松は「よかったね、兄さん」としか言わなかったし、パチンコ警察が出てくることもなかった。
なまえちゃんと約束した日、うるさいいびきが聞こえる早朝、僕はほんの少しだけおめかしして家を出た。兄弟に隠し事はよくないのかなと思うけど、でも見つかった時の方が面倒臭いなと思ったし、上三人(特に上二人)になまえちゃんの存在と僕との関係を認知されたくなかった。
日差しが上ってきてまぶしいそれに目を細めると、なまえちゃんは小さなバックとちょっと大きなカバンをもって駅の前に立っていた。
僕は切符を買ってからなまえちゃんの荷物を手に取った。それから改札を抜けて、ホームに向かう。

「一松くん、どこか行きたいところある?」
「とくに」
「そっか」

早朝の電車には数えるほど、車両によっては誰もいなかった。僕らは誰もいない車両に乗り込んで端っこの席に二人で座る。足元と膝に荷物を置いて息をつくと、なまえちゃんが僕の手を握ってから肩に頭を傾けた。
なまえちゃんは人がいるようなところで甘えてくるような人じゃない。めずらしいこともあるんだな、と僕は窓から差し込む光に目を細めた。


長い間、電車に揺られて降りた先の駅からは潮の匂いがする。海が近いね、と言ったなまえちゃんは僕の手を握る。無人で自動改札すらないすたれた駅を抜けると、おんぼろの潮風で錆びてるであろう看板だけが僕らを歓迎している。
なまえちゃんはきょろきょろとあたりを見回しながらスマホを眺めていた。

「なに」
「宿の場所探してるの」
「貸して…………、これは左じゃないの?」
「まっすぐ?」
「うん」

緊張のせいでじっとりと汗ばんだ掌が気持ち悪かった。ただでさえクソニートで卑屈で友達は猫だけで燃えないゴミなのに、汗っかきの掌のままなまえちゃんに触れて、これ以上に嫌われるようなことはしたくなかった。あっち、と手を引くのを機に手を離そうとすれば、なまえちゃんは何も言わないまま僕の小指に自分の小指を絡めた。
離すのが惜しいのかなって、自分に都合よく考えた後に自分の今置かれている状況をよくよく考えてみて違うなと思った。絡められた小指を離そうと軽く腕を振る。

「どうして、離そうとするの?」
「…………え」
「左だよね、行こっか」

一瞬なまえちゃんが僕に何を言いたかったかわからなかったし、僕の手を握りなおしたなまえちゃんの気持ちをいまだによく分かっていない。
混乱している僕なんてどうでもいいかのようになまえちゃんは何も言わないまま、僕と手を繋いでスマホを頼りに宿のほうに進んでいく。
嬉しいけれども、嬉しくなかった。こうやってうれしいことが続くと幸せ借金が増える一方で僕はいつか、突然にその幸せと同じ分だけ不幸返済をしなければならない。突然のそれが怖いのなら自ら戒めをして不幸返済をしていくしかないのだろう。
でも、ここでなまえちゃんのお金でいいところの温泉に泊まりに来て、なまえちゃんにたくさん優しくしてもらって、優しくできる。こんなに幸せ借金が増えてしまえば今自分でできる最大の戒めなんて一つとしてない。少しずつ、でも長い間戒めをしていくしかないのだ。誰か兄弟が僕らのデートを邪魔してくれれば今回の分の返済はできるのだろうけれども、そうして欲しいと思うには思うが、でもなまえちゃんのことを考えるとそれは嫌だと思った。
遠くの方で宿が見える。
なまえちゃんが僕の汗ばんだ手をぎゅっと握った。


お昼過ぎに宿について、周りを二人でのんびり散策して温泉に浸かった。それから綺麗な景色が見えるお部屋でのんびりして、おいしいご飯を誰に邪魔されることなく二人で楽しんでから、僕らはもう一度温泉にはいった。
部屋に戻ると僕の方が先だったので、お茶を淹れて待っているとお湯がすっかり冷めたころになまえちゃんは部屋に戻ってきた。僕が淹れたお茶を見るとなまえちゃんは困ったように笑ってから「ごめんね」と謝って、それを手に取る。なまえちゃんは僕が気にしないか心配しているのだろう、又幸せ借金が増えてしまっていた。
今の僕の幸せ借金は僕自身だけの戒めじゃあどうしようもないところまで来てしまっている。渋谷に行くなんてもう戒めでも何でもない。
こうやって僕が幸せ借金を増やしていくたびにどうにかしなければならないと分かってはいるものの、言い方は少しおかしいけれども借金をする度に不思議な気持ちになるしなまえちゃんも喜んでくると思うのなら、もうなんでもいいような気がした。

「一松くん」

僕の淹れた温いお茶を飲んでいたなまえちゃんが僕の横にぴったりとくっついてから僕の手を握った。それからその手を少しはだけた浴衣の胸の部分に押し付ける。
小さく開いた障子からは、明るい満月が覗いている。それは、僕らが皆バラバラになって、僕も家を出て、いく当てもなかったその時に見たものと同じように思えた。僕となまえちゃんもいつかそんな風にして、いつまでも一緒にいられなくなるのだろうか。もしもそれを僕のなまえちゃんで関わって積み重ねた幸せ借金と同じ分だけの不幸返済だというのなら、もうそれは近い未来の話なのかもしれない。

「なまえちゃん」

僕はそれに怯えながら、なまえちゃんにキスをして押し倒した。