モブ彼氏
犯罪描写あり

じわじわと鳴き続けるセミの声がうるさくて、ゆらゆらと揺れる視界は陽炎のせいなのか単純に熱中症なのかはわからなくなってきている。何をしてもだらだらと額からこめかみにかけて汗が流れていて、お揃いで買われた半ダースのTシャツだって背中と脇の部分はほんのり色が濃くなっているに違いない。
久々に勝ったパチンコのお金でスーパーでビールと冷凍食品のチャーハンを買った。ついでにパチンコの余り玉でお菓子を少々。ダースで買ったビールは思ったよりも重くて、それでいてこの暑さのせいで、ここらの公園で一人で開けて飲んでしまおうと思うほどだ。かさばった荷物をすべて投げ出してしまいたかった。
じわじわ、ミンミン、じゅわしゅわ、頭の中がいろいろな音でぐちゃぐちゃになっている。
小さな十字路に着いた、意味のない少し錆びた信号が赤で光っているように見える。夏場はこれがあるからいやだった、結局ぎらぎらと照り付ける太陽のせいで信号が赤なのか青なのかはわからない。俺は、ふぅと一息ついてからスーパーで買った荷物を置いた。それからきょろきょろとあたりを見回す。よくよく考えればこんな小さくて、車が通らない十字路に信号がある方がおかしな話だと思ったし、車だって来る様子もない。
はぁ、と俺は小さく息を吐いてからもう一度荷物をもって、おそらく赤であろう信号を無視して道路を横切った。もちろん、黒猫が通ることも車が通ることもない。
十字路を横切ってから、角を二回、右二回に曲がると小さなアパートが見えた。五階はどうなっているのかそれを見ようと見上げたけど案の定、見えない。ちえっ、とちかちかする視界でエントランスを抜けてからエレベーターに乗って五階に上がる。
エレベーターから降りて左に三つ目、503がなまえちゃんのアパートあったはず。いや、なまえちゃんのアパートなのかはわかんない、けどなまえちゃんはここに住んでいる。
扉の前に立ってから、はぁと息を吐いた。それからインターホンを押そうと人差し指を出す。握った掌には嫌というほど汗をかいていた。俺は一度そのびっしょり濡れた掌をTシャツの裾で拭いて、それからもう一度インターホンを押そうとする。
じわじわ、とこんなところでもセミの声がうるさい。
ぐるぐるとなんだかよく分からないけど漠然とした曖昧な不安が息を苦しくする。インターホンに指で触れたままいくらほどの時間が経ったかはわからない。押さないでこのまま来た道を返して兄弟全員で山分けしてしまうのもありかもしれないとそんなことも思うけど、でもどうしてこんな気持ちになるのかいまだによく分かっていない。
ぽた、と額からこめかみを通って汗がコンクリートに吸い込まれていった。俺はぎゅっと奥歯を食いしばってから、インターホンを押す。ピンポーン、と音がなってから俺は指を離した。

「あ、あれ……」

なまえちゃんは出てこなかった。それはそれでほっとしたような気もするけれども、少し残念な気もする。自分の感情がよく分からなかった。
ピンポーン、と二回目のインターホンを押す。二回目インターホンを押したときは、一回目の緊張なんて嘘のように思える。一回緊張がほどけてしまえばそれ以上は何もなくて、俺はいつの日かと同じようになまえちゃんのことなんて関係なしに、がちゃがちゃとインターホンを鳴らし続けた。けれども、なまえちゃんは出てこない。
おかしいな、と俺は首をかしげながらTシャツの裾で口元の汗を拭う。せっかく陳列している棚の奥の方からキンキンに冷えたビールを持ってきていたのに、温くなっているに違いない。
帰ろうかな、なんてそんなことを思っているとガタンと大きな音がなまえちゃんの家の方から聞こえた。

「なまえちゃんいるの?」

もちろん、返事なんてない。
俺は不思議に思って、ドアノブに手をかけた。どうやら鍵はかかっていないようですんなりとドアが開く。こっそり中を覗いてみると玄関には最近女の子がよく履いているようなサンダルと汚いビーチサンダルが並んでいた。入って左側にあるキッチンには何も置いていない。お邪魔しまぁす、と俺は小さく声をかけてから中に入った。
いや、もしかしたら強盗かもしれないなって。それならどうにかしないといけないじゃん。それに、あのサンダルはなまえちゃんのものだ。俺はそれを履いたなまえちゃんと一緒に海に行ったことがあるからわかる。
短い廊下を抜けてから、ガラスの扉を開いた。

「なまえちゃん?」

そこで見たなまえちゃんは俺の知っているなまえちゃんとは違うように思えた。
後ろに一つ束ねた髪の毛は、ぴょこぴょこと後ろ毛が出ていたりして無造作でパンツが見えてしまいそうなズボンと上は黒い下着姿だった。ちらり、と重たい前髪の中でなまえちゃんは俺のことを見た。いつもは艶々でピンク色の唇はかさついているようで色を持っていない。
佇んで俺を見ているなまえちゃんの足元には寝転がる男があった。
ぶわり、とカーテンが大きく膨らんでその先のベランダからは朝顔が見える。



「なまえちゃん、チャーハン出来たよぉ」
「うん」
「おなかすいたね」
「うん」

じわじわと相変わらずセミの鳴き声はうるさくて、茹だるほどに暑い。
小さなちゃぶ台に俺は近くのスーパーで買った冷凍のチャーハンを置く。なまえちゃんは部屋の隅っこで壁に凭れながらぼんやりと外を見ていた。
俺はそんななまえちゃんのうなじから覗く汗にくぎ付けになる。

なまえちゃんとあの人は取っ組みあいになって、掴みかかられたところをどうにかしようとしたところに頭を強く打って動かなくなったらしい。それ以上は知らない、俺はたまたまその時の音を聞いて中に入ってきたことになる。あの男はそれからどうなったかは俺となまえちゃんは知らない。佇んで動かないなまえちゃんの手を取ってから俺はその場所から逃げた。それから、少し離れたボロボロのアパートで二人仲良く暮らしている。
なまえちゃんに言いたいことなんてたくさんあったけれども、あれ以降なまえちゃんの様子はおかしくてそんななまえちゃんを見ているとそんなことどうでもよくなった。
もしかしたらなまえちゃんが死んでいたのかな、とかそんなことを考える時だってあるからこそ、どうすることもできない。だって俺、なまえちゃんのこと好きなんだもん。

「いやぁ、今日も暑いね。お昼だけどビール飲んじゃおっか!」

なまえちゃんは俺の方をちらりと見ると、又窓の方を眺めた。

「ねぇ、なまえちゃん」

俺は立ち上がるとなまえちゃんの方に向かってからなまえちゃんの横にしゃがみ込んだ。それから、汗で張り付いた前髪を指でかき分ける。
なまえちゃんは俺のことを見ると、ゆっくりと目を閉じた。俺は右手をなまえちゃんの頬に這わせると、触れるだけのキスをする。
なまえちゃんが眺めていた先にはあの時一緒にもって来た朝顔が咲いてあって、遠くではパトカーのサイレンのような音も聞こえたような気がした。