体育教師 バスケ部

朝と同じことを言い続けて無意味に長いホームルームが終わってから随分と時間が経とうとしている。ぼんやりと外を見てみると、走り込みをしている陸上部、ドリブル練習をしているサッカー部ととりあえず部活で忙しそうな生徒の姿が見えた。私は外から目を離して、机にかけてある中身は何も入っていない指定鞄を手に取った。
廊下に出てみても、他の教室に誰もいないようだった。いつもは馬鹿みたいに騒がしいのに今だけは私の歩く足音しか聞こえない。教室を出て、廊下を抜けて、三階分の階段を下りた。私がいた教室から今行きたいところは、学校の設計的に対になっている配置になっていて、色々な建物を抜けていかないといけない。建物に差し込む光は、オレンジ色に変わっている。ひたひた、と私は日陰を通って隣の棟に続いている渡り廊下を進んだ。相変わらず人がいない廊下を抜けてから、下駄箱で靴に履き替える。それから校舎をぐるりとかこむようにして進んでから、体育館の方に向かった。
今日は裏口じゃない方から靴を脱いでまっすぐに進んでいく。部活をする生徒の声やら、熱を持った空気のせいで酔いそうになる。

「なまえ」

体育館の中をずっと抜けると右に小さな部屋がある。私はドアノブに手をかけると、後ろから声をかけられた。

「部活はどうしたんだ」
「やめた」
「何かあったのか」
「バイト始めたから、時間とれなくて」

ぎゅ、っと汗ばんだ手で手首を握られた。私はドアノブから手を離してカラ松の方を向いた。相変わらず暑っ苦しそうで、さわやかな柔軟剤の匂いと汗のにおいがほんのり混じった匂いがしていた。じっとりと汗を持った掌で嫌な感じで体温が上がっていく。

「練習はいいの?」
「今は休憩だから」
「そうか」

カラ松は何か言いたそうな顔をしてから、ぎゅっとさらに強く私の手首を握った。

「どうしたの」
「……いや」

結局カラ松は何も言わないまま、ゆっくり手を離した。少し前まで私と変わらなかった身長はすっかり大きくなっていて、大きな体になったわりには中身は相変わらずなんだなと思うとちょっとだけ面白かった。
すると、遠くでカラ松のことを呼ぶ声がした、それから「お前、トイレに行ったんじゃなかったのかよ!」と言われてカラ松ははっとしたような表情をした。
ぱたぱたと慌てて練習に戻るカラ松を見てから、私はもう一度そのドアノブに手をかけた。ねじって、重たい扉を引けば煙たくて思わずせき込む。そっと中に入ってからドアがキチンを締まるのを見て、私は鍵を閉めた。


ただ黙々と煙草を吸っているその横顔がなんとなく寂しく見えて、途端に悲しくなった。

「せんせ」

灰皿には少しだけ吸った吸い殻が何本も押しつぶされている。それを手に取ろうとすれば、ぺちっと手を弾かれた。先生は私の言っていることには何も返さないくせに、実はちゃっかり話を聞いていたりするものだからずるいなといつも思う。

「せんせ、さみしい」
「……」
「せんせもさみしいでしょ」

「だって先生、大人のくせに子供みたいだもん」とそう言おうと思ったけれど、でもやっぱり子供のままだからそれを言うと機嫌が悪くなると思う。だから何も言わないでおくことにした。先生は吸い殻を灰皿に押し付けてから私の髪の毛をぐちゃぐちゃになるまで撫でるとぽんぽん、と頭を撫でてから抱き寄せてくれた。いつものおとこものの香水の匂いとさっきまで吸っていた煙草の匂いが混じった匂いの先生はとっても悪い男の人のように思える。体育教師らしいがっちりした腕が私の脇を通るようにして抱きしめてから、ブラジャーのワイヤーの部分を何度か指でなぞった。今日はかわいい下着を着てきてよかったなと思いながら身体全体の体重を先生に傾ける。そうするとちょっとだけ、さみしくないような気がしたけれどでもやっぱりさみしかった。胸元を触っていた先生の手がスカートの裾に触れた。ぺらりとスカートを捲るようなしぐさをして、でも結局何かを思いとどまったように戻される。
見た目通りに性欲お化けの先生のことだから、今日もするんだろうなと思ったのだけれども今日はそんな気分ではないらしい。

「なまえ」
「なに」
「お前、松野と付き合ってるのか」
「……、まさか。幼馴染なだけだよ」

機嫌がよくないのは、カラ松に嫉妬しているだけかもしれない。やっぱり子供みたいだ。私は先生のごつごつした指に自分の指を絡めてからぎゅっと握った。冷房がきいているところに何時間もいるせいか、先生の指先は冷たい。私は先生の手にキスをする。ちゅ、と唇を押し付ける本当にそれだけのキスを何度かして手を離そうとすれば、先生からも握りかえしてくれて離すことが出来なかった。
先生とは付き合ってない。でも、私は先生とずっと一緒にいるって約束したらこの先も、万が一結婚したとして色んな人に先生が非難されたとしてもずっと先生の横にいるつもりだ。それはこの大きな子供のような先生に同情したわけじゃなくて、でも同情に限りなく似た感情を持ってしまったからである。たぶん、先生も同じだと思う。だからきっと、私たちは似たもの同士で吸い寄せられるようにして一緒になっていくのだろう。

「今日、風委委員の風紀チェックがあったんだけど」
「……」
「少し前から煙草臭いって注意されちゃった。それで、私が喫煙してるって」
「そうか」
「ちょっとだけ嬉しかったよ、せんせの匂いが染みついて離れないって」
「なまえ」
「せんせ、ひどくしてくれていいんだよ」

酷くしてほしいのは、自分のためでもあるし先生のためでもある。それが先生のためになるかは今一わからないけれども、でも今一生懸命考えた結果はそれだった。
先生は、皆の前では少し演技かかっていてイタい言葉で気さくな先生だ。でも、それは上っ面にしか過ぎなくて、本当の先生は臆病ででも一等優しくてでも本当はとってもサディストなのだ。それに気づいたのはきっと偶然でそんな先生に引き寄せられるようにして関係を持ったものきっと偶然なのだけれども。でも、きっと私も先生と何かが似ているのだと思う。
誰も来なくて締め切った煙草の匂いがする体育教官室の小さく開いたカーテンからなんとも言えない色の光が差し込んでいる。

「カラ松はね、最近部活を急にやめた私のこと心配してるみたい」
「……」
「おせっかいなだけだよ」

今すぐにでも先生とどこか遠くに、それこそ先生と私以外何もないようなそんなところにいけたのならいいのにと思ったけれども、そんな所どこにもないことを私と先生は知っている。だから、先生は何も言わないし、私も何も言えないのだった。