これの続き

時間は8時を過ぎた頃だったと思う。ぼんやりと意味もなく小さく開いているカーテンからちょっと欠けた月と窓ガラスに映る自分を見ていると、がチャリと音がなってなまえが帰ってきた。
僕は名前を呼んで、玄関へとむかう。なまえは「ただいま、いちまつくん」と僕に声をかけてから靴を脱いだ。それから手に持っていた紙袋を僕に渡す。不思議に思って中身を覗いてみると片手くらいの箱が入っていて、ふわりと甘い香りがしたような気がする。

「駅前で売ってたから買ってきちゃった」
「なにこれ」
「今川焼だよ」

今からご飯の準備するね、少し待っててとなまえは僕にそれを預けたまま奥の部屋に向かった。
くんくん、ともう一度匂いを嗅いでみるとやっぱりそれは甘いにおいがする。僕は部屋着に着替えているなまえの方に行った。ジャージに着替えて、髪の毛を一つに束ね、コンタクトを外して眼鏡をかけたなまえは僕を見ると「お腹すいた?」と声をかける。
急いでご飯準備するね、と言うと僕の前をせかせかと通って台所に行く。ジャーと流れる水でせっせと手を洗ってから冷蔵庫の中を見る。「今日はお鍋にするね」とそう言ってから冷蔵庫から野菜やら肉やらを取っていく。僕も台所に行って、料理をするなまえを後ろから抱き締めた。頭ひとつくらい小さいからつむじが見える。僕はそれをじっと見た、深い意味はない。

「料理しにくいよ」
「うん」
「お皿とコンロテーブルに出してきて」
「……ん」

好きというより、かわいそうって感じなんだと思う。でもなんというか不憫でかわいそうだって同情するってよりかは生まれたての子猫に優しくしてあげたいって思うあのかんじに近いかもしれない。でも結局それは単純な感情じゃないから、結局どれかよくわからない。
家の前のゴミ捨て場に倒れていたらしい僕をなまえは家に入れて、看病をしてくれた。僕の意識が戻ったときに名乗ってもいないのに「いちまつくん」と名前を呼んできたのはもうだいぶ前のことだけど。
たぶんなまえは薄々分かっていると思うけど、僕はマから始まってアで終わるヤバイ組織の関係者で本当は名前を知られたりするのはいけないことだったりする。でも、なんだかなまえは僕のことをそうやって呼ぶけれどもそれは僕のことを呼んでいるようにも聞こえるときもあれば、全く違う誰かを呼んでいるようなときもある。
そこは詳しく聞かないようにしている。ときどき、夜中に泣きながら「いちまつくん」と呼んでうなされている時があるから、それはきっとなまえの触れられたくないことのように思うし余計なことを詮索して逆に詮索されることは避けたかった。
そんな部分もあるけれども僕はなまえとの距離感がひどく心地いいとも思っている。とても優しい人だと思った。
僕の知り合いにも優しいなんて言われているやつがひとりいるけれどもそいつは押し付けがましいワガママで利己的な、結局自分のことしか考えてないエゴイズムっぽい優しさでなまえとはまた少しタイプが違う。

僕は軽くテーブルの上を拭いてから紙袋とコンロを置いて、食器棚からお皿を二枚とお箸を二膳とる。ランチョンマットが敷かれたテーブルに並べた。ちょうどその頃になまえも準備が終わったみたいで、やや小さめの猫の模様がある鍋を持ってきてそれをコンロの上に置いてから火を着けた。

「いちまつくんは、今川焼たべたことある?」
「ない」
「そうなんだ」

椅子に座ってから、なまえは小さく息を吐いた。疲れているのかもしれないと思ったから電機ケトルにお水を入れてからお湯を沸かす。温かい飲み物をいれようと思った。
丁度そのころ、ピンポーンとインターホンがなる。

「僕が出るよ」
「いいよ」

宅急便かなと言ったなまえは判子を取り出して扉を開けるとそこに立っていたのは、よく見慣れた男だった。
男は、なにも言わずにズカズカと部屋に上がり込む。

「ドン、探しました」
「……」
「そこの女にたぶらかされていたんですか?」

どっちかって言うとこいつのつけているレザー系の香りよりもなまえの買ってきた今川焼の甘い匂いのほうが好き。
ズカズカとあがりこんで適当なことを言うカラマツを見てもなまえは何も言わなかった。僕はなまえの前にたってから手を繋ぐ。

「いい加減にしてください、組織がどれだけ困っていると思うんですか」
「それはお前があの工場を跡形もなく移動させたせいじゃん」
「俺はこの組織のことを思ってやったことです。現にうまくいきました」
「あっそ」
「ほら、早くしてください」

くそみたいに鍛えられた腕にガッチリと腕を捕まれた。僕はちらりとなまえの方を見る。
なまえが行かないでと、繋いだ手を離さなかったのなら僕はそれを受け入れようと思っていた。組織のことよりもなまえのことを優先させようと思ったのは、助けてもらった恩義があるからか、このクソマツをもっともっと困らせてやろうと思っているからか、生まれたての子猫に優しくしたい気持ちがあるのかはよくわからない。
でも、たぶん僕はなまえのことを意識しているんだと思う。それは必ずしも恋愛であるかはわからないけど。

「なまえ」

ワガママを言ってもいいとそんな意味で名前を呼んだのだけど、なまえはゆっくりと指先を離した。
ぐつぐつと沸騰している音がする。