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「なまえちゃん、お待たせ」

放課後、誰もいなくなった教室で一人ぽつんと自分の席に座っていれば、その人はいつものように私の名前を呼んで教室に入ってきました。
待ってないよ、大丈夫だよ。と答える、その人はにっこりと笑って「愛おしい彼氏のことでも考えていたの?」と返します。彼は私のことをなんでもわかっているので、私は何も答えずに素直にうなずきました。
私の隣の席に座るとその人は、椅子を引いて私と向かい合うようにして姿勢を直しました。ゆるく伸びた袖から、細くて骨ばった指先が見えて、それが私の頬をなぞります。
とても綺麗な顔立ちだと、思いました。特に今日は。
さぁ、どうしてなのでしょう、その理由はよくわかりません。頬をなぞる指は、いつもと変わらなく、それがどうしようもなく私を安心させ、又、ドキドキと胸を高鳴らせるのです。それに関しての理由はわかっています。でも、理由を述べてしまうとすべてが壊れてしまうので、口に出すことはできません。
頬をなぞる指は、最後はいつも唇にいきます。それは、今日も変わりありませんでした。弾力を確かめるように、ふにふにと押される感触を楽しみながら、私はゆっくりと目を閉じました。甘いものが好きな彼の言葉も、いつだって甘いのです。

「キス、してほしいの?」
「……うん」

しょうがないなぁ、とその人、十四松くんは少し笑ってからキスを落としてくれました。触れるだけの優しいキスです。十四松くんは、女の子には誰にでも優しいのです。私もその優しさに甘えている女の子の一人です。あぁ、でも私の場合甘えているなんて言葉では済まないかもしれません。私はとても、狡い人間なので甘えるというよりかは、彼に犯罪の片棒を担がせているようなものでした。
雨の音に紛れて、カタンと何かがぶつかる音が廊下でしたような気がします。私はそれを聞いてから、唇を離した十四松くんに自分からキスをしました。啄むようなものから、ゆっくりと舌をこじ入れます。女の子なのにはしたないのです。
十四松くんは、それにびっくりした表情をみせてからも、ちょっと困ったように舌を絡めてくれました。優しい人なのです、それに漬け込む汚くて、狡い私。
暫くすれば、十四松くんはきまずそうに唇を離しました。この表情をすると、今日はこれ以上どんなにねだってもキスをしてくれません。唾液が糸を引くのをみて、私はブラウスの袖でそれを拭きとりました。

「なまえちゃん」
「いいの」

十四松くんと、私では立場が違います。それを言いたかったのでしょう。
雨脚が強くなってきた気がします、遠くで雷の音も聞こえてきました。十四松くんは、気をつけて帰ってねと声をかけてから、教室を出ていきました。もちろん、音がなった場所とは違う方の扉からでした。
そうして又、教室には私以外誰もいなくなりました。私は、小さく息を吸ってから、愛おしい彼氏の名前を呼びました。

「カラ松くん」

暫くは、雨の音しか聞こえなかったのですが、もう一度名前を呼ぶと、十四松くんが出ていっていない方の扉の、音がなった方からカラ松くんが入ってきました。
ドカドカと私に近づいてから、十四松くんが座っていた椅子を勢いよく蹴り飛ばしました。それから、チッと舌打ちをして私のブラウスの胸倉を掴んで引き寄せます。
ガタリ、と反動で私の座っていた椅子も倒れてしまいました。
とってもとっても恐い表情です。

「なまえ、おい!」

怒った表情は、私の名前を呼ぶと忽ちぐしゃりと崩れて、それから今にも泣きそうな表情に変わってしまいました。
相当堪えているようです。
「なまえ」と私の名前をもう一度呼ぶと、掴んでいた手を離してから、よろめく私をぎゅっと抱きしめました。

「なまえ、俺、なぁ、なまえ」

カラ松くんの問いに私は答えません。私は、どこまでも狡くて汚い女なのです。
そんな汚くて狡い女を好きなカラ松くんは、どこまでも優しい人で、だから、私にいつまでも利用されています。とてもかわいそうです。
ぎゅ、と更に強く抱きしめされて、カラ松くんの吐息が首筋にあたってくすぐったいと思いました。私は、カラ松くんの綺麗な髪の毛に触れました。
カラ松くんは、口調は荒いもののとても優しい人なのです。だから、こんなことをする私に腹を立てても殴らないです。共犯の十四松くんにも。何度も何度も同じことをする私にカラ松くんは、何もせずにただ、私の名前を呼んで、何かを言いかけて、強く抱きしめるのでした。
さぁ、私にはそれがどんな意味を持つのかわかりません。でも、優しいカラ松くんのことなので、きっと、私が傷つかないようにしているのでしょう。
こんな女早く捨ててしまえばいいのに、カラ松くんに似合う女の子は私ではないのに。もっともっと素敵な女の子なんて、沢山いるのに。なのに、カラ松くんは、私がほかの男の人と何をしても、ただこうやって我慢して、逃がさないと言いたいのか強く抱きしめるのでした。
優しくて可哀想なカラ松くん。でも、最も可哀想なのは、こうやって沢山の人を巻き込んで好きな人を傷つけてしか愛情を確認できない、汚くて、狡い私だと思うのです。
遠くで、雷のなる音がします。私は髪の毛に伸ばしていた手をゆっくりと背中にまわしました。