これの続き


逃げようと思ったわけじゃない。ただ、少しだけ外に出ようと思っただけなのだ。あぁ、でもそれをあの人は、逃げると捉えるのだろうか。長い時間一緒にいたつもりなのに、その割にはいまだにあの人について分からないことが多い。
マフィアのボスだ、と名乗るあの人は、私を小さな部屋に閉じ込めた。でも、閉じ込めただけ。高そうな洋服やアクセサリー、靴、食べる機会なんてめったにないような食事、小さな部屋と言っても、生活するには十分設備が整っている場所だった。何もしなくていい、好きな時に起きて、食べて、好きなことをして、あの人の帰りを待って、相手をして、愛の言葉を囁かれて、それから眠る。大体こんな生活を繰り返した。私が望むモノはなんでも与えてくれる、あの人に暇があって一緒なら好きな所にも連れていってくれた。彼のいる場所以外は。

何不自由することなんてないのだ。
本当は嫌で仕方のなかった仕事も、もうこなさなくていい。キツキツで夏場は暑くて仕方のない通勤ラッシュの電車も、もう乗らなくていいのだ。いつもの生活とは明らかにかけ離れているけど、あの生活の中で生きてきた私が望んだ生活が今そこにはあるのだ。
ずっとずっと望んできたことなのに、なのに何もないみたいで全てが空っぽに思えた。美味しいものを食べて、したいことをして、愛してもらえる。とてつもなく幸せであるはずの生活に、私は幸せを見出せずにいる。

小さな部屋から抜け出して、ちょっとだけ屋敷を見て回ろうと思っただけなのに。扉に手をかけると、ガチャリと音がなって扉がひらいた。それから、目の前にはあの人。私を見てから、びっくりしたような表情をしてから、少しだけ困ったような表情に変わる。

「どこに行こうとしてたの?」
「…ちょっとだけ、お屋敷をみてまわろうと」
「ふぅ〜ん」

拗ねたような表情をして、唇をとんがらせた。私をみてから、少しだけ視線を下に向ける。
マフィア、と聞けば拷問の血みどろで、ヤクと銃と殺しと女と…、とりあえず私にはまったく関係のない、とてつもない恐い世界で、あの人も私が言うことを聞かないのなら暴力をふるって、無理にでも犯して恐怖と暴力で縛り付けるものだと思っていた。でも、実際はそんなことはなくて、「これ、流行ってるんでしょ」と暇がとれなくてなかなか外に出られない私に、今まで生活していた場所で流行っているであろうモノをもってきてくれたりした。

「本当に?おそ松くん、の所に行こうとしてたんでしょ」
「……っ、そんなわけ」

嘘だぁ、口調は軽いのに私の肩を掴むその手は今までで一番荒々しかった。掴んでから、乱暴にベッドにまで引っ張ってから、投げる。どさり、と倒れこんでギシと小さくスプリングが軋んだ。
あの人は、私の名前を呼んでから、ジャケットを脱いで、ネクタイを緩め、倒れこんだ私に跨った。

「もう、自分から別れてるのに未練たらしいよ。なまえちゃん」
「……」
「そういうのは、相手にとっても迷惑だからやめようね」
「……」
「ほら、」
「あなたが、私に別れるように言ったんじゃないですか…。殺すか、別れるかって」
「……」

あの人に初めて口答えをした。
自分勝手だ、勝手にここに閉じ込めて、殺すか別れるかなんて選択肢でもないような選択肢を叩きつけておいて、それでさも私が勝手におそ松くんを振ったみたいな言い方。そんなの、勝手すぎる。力で捻じ伏せて、好きなことばっかり言って。そんなの、そんなの。

「…ねぇ、なまえちゃんはいつになったら俺のこと好きになってくれるの?」
「……」
「俺、なまえちゃんが嫌がることはしてないと思うんだけど」
「そんなことしたって…」

そんなことしたって、好きになれません。と最後まで言えなかった。私を抱きしめるあの人は相変わらず壊れ物を扱うようで、いつもの口調とは打って変わって弱々しかった。
同じ顔なのに、なまえちゃんのことを思っているのは俺のほうなのにね、茶化すように言うそれも冗談に聞こえなくて、ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。

「本当は、なまえちゃんを外になんて出したくないよ。ずっとここに縛り付けて、彼奴のことを考えるたびそれを俺に塗り替えたいし、滅茶苦茶になるまでセックスだってしたい。優しくしてつけあがるなら、暴力だって…でも」

でもそれじゃあなまえちゃんの大好きな彼奴が更に綺麗な思い出として残るでしょ。そう言ったあの人の声は、消えてしまいそうで、かすれている。
私がおそ松くんを好きであると同じように、この人も……。そう思うとすべてを否定することが出来なくなった。
おそ松くんと違うのに。おそ松くんを好きになるのと同じようにして、この人のことも好きになれればよかった。それなら、きっと。

「あぁ〜!もうなんだかいいかなって。片思いって辛いね〜!」
「……」
「好きになってもらうのは難しいねぇ、お手上げかも」
「……じゃあ!」
「いいよ、なまえちゃんが会いたがってるおそ松くんに会わせてあげる」

いつもの口調に戻る。それから優しく、髪の毛を撫でられた。

「でも!」

ばっ、と身体を話してから、にんまりと笑って胸に触れる。それから、その手を、ゆっくりと下腹部に這わせた。

「なまえちゃんが俺とのカワイイ子供を生んで、『これが愛する相手との愛おしい子供です』って報告する時だけね」
「……」
「手放す気なんてないよ」
「そんなの…」
「それに、なまえちゃんもうココしかいる場所ないし」

あれ、言わなかったっけ。俺、ちゃんとみょうじなまえちゃんの戸籍消しておいたよ。そう言って、とんとん、と優しく人差し指でヘソの下を叩かれた。
すごいでしょ、知り合いのお医者さんに頼んでなまえちゃんの死亡診断書を書いてもらったの、そしたらあとは死亡届を出して……。そんなことを言っていたような気がする。
おそ松くんに会わせてくれると言って出した条件もそこそこに、そこまでして私をおそ松くんに会わせたくないのか。
戸籍を消さなくなって、どうせ何年もここに閉じ込めて出してくれないくせに。私は結局あそこには戻れないのだ。あそこで生きてきたそれは全てこの男に消されてしまうのだろう。自分がどうしても欲しいものを手に入れるためには、手段を択ばない。

マフィアだからなのだろうか、職業柄、欲しいものはなんとしても手に入れるのだろうか。それとも、おそまつ、だからなのだろうか。この男の性格的なことからしてここまでしても、縛り付けようとするのか。
ちゅ、ちゅと手の甲に二回、キスを落とされる。ちらり、とロザリオが胸から見え隠れした。

「それに、日本での仕事も終わるからイタリアに帰ろうと思ってる」
「イタリア?」
「そう、イタリア。そしたら、結婚式あげよっか。すっごい綺麗なところで」
「……」
「ちゃんと結婚して、子供もできたら、俺の兄弟も紹介するね。そしたら、俺以外の話相手もできていいと思うし」
「……」

ね、なまえちゃん。と覗き込むようにしてこちらを伺った後に、嬉しそうに微笑んでもう一度、今度は唇にキスを落とした。
俺さぁ、やっぱりなまえちゃんのこと好きなんだよね。そう言ったその表情だけは、おそ松くんと全く同じだった。