朝は曇り空でぱらぱらと雨が降っていたけれども、お昼を過ぎる前くらいから雨脚は弱くなって私がお仕事を終える頃にはすっかり止んでいた。六月ということもあってか、段々と日は長くなっていて、七時を過ぎても明るい。雨が止んだ後の何とも言えない色の空を見上げてから、私はお気に入りの傘を片手に職場を後にした。
たまに見かける水たまりを飛び越えながら私は、気分よく帰路につく。いつもなら、仕事場から駅までの間はバスを使うのだが、今日は歩いて駅に向かう。特に大した理由はない、本当になんとなく歩きたい気分になったのだ。
帰宅ラッシュなのか、人が多い。私と同じように仕事帰りと思われる女の人に、サラリーマン、それから制服を着た学生。そうして暫く歩いていると、近くの公園でスマホを見てから辺りを見回していた女性が目にはいる。デートなのだろう。なんとなくそんなことを思って、立ち止まった。
あの人を思いだす。今日は会う約束をしていないけど、無性に会いたくなった。理由もなく、そんな気分で会いたいと言えば彼は素直に会ってくれるだろうか。彼もなんだかんだで忙しそうだから、断られるかもしれないけど、実は彼も結構な寂しがりやだから、なんだかんだで会ってくれたりなんて。ちょっぴり自分に都合のいいことを考えながら、ポケットからスマホを取り出してロック画面を解除する。壁紙はあの人と撮ったツーショットだ、自分でもこんなことをするとは思っていなかった。
友人の恋の話を聞くたびに、男なんてくだらないと思っていた私がこんなにも、男のことで頭がいっぱいなのだ。本当に、自分でも笑えてくる。
着信履歴から彼の名前を見つけてから、発信のボタンを押そうとする。
初めはなんといえばいいのだろうか、もう何年も付き合っているのに未だ付き合いたてのドキドキした感じは抜けない。ふぅ、と大きく溜息をついて落ち着かせてから、もう一度着信ボタンをタップしようとする。

「あれ、なまえちゃんじゃん」

どきり、と心臓が跳ねた。後ろから、聞き覚えのある声が聞こえる。
振り向くと、そこにはやっぱり、想像した通りの人物が立っていた。

「仕事帰り?お疲れ様〜!」
「う、うん」
「そう言えばさぁ、もう六月だね。なまえちゃん」
「うん」
「あつくなってきて、更に外に出るのがおっくうになるね」
「そうだね」
「ん、なに。電話しようとしてたの?」

ひょいっと、後ろから抱きしめるようにして私のスマホをとった彼は、着信のそれを見てから、ちっと舌打ちをして地面に叩き付けて、バキ、と割れたそれを踏みつぶす。

「なんだっけ、六月って…えっと…ジューンブライドって言うんだっけ」
「……」
「なまえちゃん結婚すんだもんね、長い間付き合った彼氏サマと」
「……」
「おめでとー!」

その人の声はいつだって程よく低くて甘い。それがいつだって好きだ。

「でもさぁ、俺のことはどうしてくれんの?ずっと一緒だって約束したじゃん」
「約束……してないよ」
「えぇ?!忘れたの?酷いよ、なまえちゃん」

さっき目に入ったあの女の人の元には、いつの間にか男の人がいた。にこにこと微笑みあうそれを見ると、ぎゅっと胸が痛くなる感覚がする。
私は、おそ松くんとは付き合えなかった。本当は寂しがり屋で甘えたがりの彼はいつだって楽しいことが好きで、頼れる人だったけれども、頼れるのは本当に稀で、私が辛くてどうしようもないときには一緒に居てくれなかった。お仕事もしてくれないし、パチンコと競馬で忙しい彼とは将来を一緒にすることは出来ないと考えて、別れを告げたのだ。
もう少しだけ、寄り添いあって、それから仕事をしてくれたのなら、今も私はおそ松くんと付き合って結婚していたのかもしれない。
そんな、おそ松くんとの関係で悩んでいる時に助けてくれたのが今の彼氏、来週には旦那になる人だった。おそ松くんとの交際を切ったのは私の我儘が多いのかもしれないけど、もう、年齢も年齢で、遊びで恋なんてしていられないのだ。好きでずっと一緒に居たいから、なんてそんな感情だけでいつまでも一緒に居られるわけじゃない。

「ごめんね…でも、私は…働いてない人とは一緒に居られないよ」
「……」

腰にまわされた腕を解こうと手を伸ばせば、ぎゅっと更に強くなる。

「えぇ、なんで?ひたすら遊んで暮らそうぜ」
「無理だって…」
「ずっと好きだって言ったじゃん、あれ嘘なの?」

私だって、おそ松くんのことが嫌いになって別れたわけじゃないんだよ、そう本心を告げようかとも思ったけど、でもそういってしまえば別れたに対して言い訳をしているようで、それこそおそ松くんを傷つけてしまうんじゃないかと思うと、言えなかった。

「でも、俺は全然祝福してないから…なまえちゃんは俺のだし」
「……」

もう一度、ちっと舌打ちをしてからおそ松くんは私を離す。ずっと緊張して強張っていた身体の力がゆっくりと抜けていく。
きっと来週式を挙げて、籍を入れれば私はこの町から出ることになるだろう。彼の仕事の関係で遠くに行かないとならない、だからもうおそ松くんと会うこともない。

おそ松くんに触られた場所が何となく熱い。

「ふぅ〜ん、まぁそれならそれでいいけどさぁ」
「……」
「いいの?俺、なまえちゃんの恥ずかしいことしてる写真とか動画いっぱいもってるよ」
「え、は?ねぇ、ちょっと」
「俺がなまえちゃんに対して何もしてないと思った?」
「意味がわかんない」
「その恥ずかしい動画、披露宴で流そっか!」
「ねぇ、話が」
「そのまんまじゃん。結婚して幸せになるなまえちゃんに元カレの俺からハメ撮りのプレゼント!しかも、泣いて善がってきたやつね」

そんなの全く記憶になかった。確かに更衣中に何度か写真を撮られたことはあったけど、それは別れる時に全部消してもらったはずだ。
パキ、と再びおそ松くんが割れたスマホを踏んでから私に近づいてくる。怖くて、何が起こっているか分からなくて動けなかった。緊張がとけたはずなのに、体は再び強張っていうことをきかない。

「俺のこと忘れて、お前だけ幸せになるなんてさぁ…そんなの許さないから」

そう言ったおそ松くんの口元は歪でいて、謝るにも、もう一度関係を築きなおそうとするにも全てが遅かった。
伸ばされた手が頬を這って、すりすりと気味悪くなでられる。湿気を含んだ気持ちの悪い風が吹いて髪を揺らした。