鍵穴に鍵を差し込んで捻る。それからドアノブを掴んで捻りながら手前に引けば扉は開かなかった。
ぞわり、背中に冷たい汗が流れる。再び同じ行為をすれば、扉は軋む音がして開かれる。今日は金曜日、誰もいないはず。無論彼も今日は来ないと言っていた。
視線を下にそらすと、最近買ったお気に入りのパンプスの横には綺麗に並べられた青色のスリッポンがある。鼻孔を擽るは、美味しそうなカレーの匂いだった。
私を呼ぶ声はしない、駆け寄る足音もない。でも、彼はいる。
靴を脱いで、おそるおそる彼の待つ部屋へと向かう。数メートルしかない廊下がこの上なく長く感じた。

「……来てたんだ」

彼はぽつんと座っていた。
朝干していった洗濯物は綺麗にたたまれていて、掃除機もかけてくれているようだ。カレー、ありがとうと台所の鍋を指さしながら言えばそれも返事はなかった。
彼の目線はどこに向けられているか分からない、サングラスによってわかりにくくなっている。私は彼の兄弟のように彼を罵ることは出来ない。
彼の機嫌がすこぶる悪いことはわかる、どうしてなのかもおおよそ理解はついている。でも、どのようにすれば機嫌が直るかは分からないし知らない。気分によりけりなのだ。

「……ごめんなさい」
「なにが」

謝って初めて、口が開かれる。いつものような歯が浮いてしまうような甘い台詞は出てこない寧ろいつもでは考えられないような鋭さを感じる。
少し寒気がしてきた。

「今日のこと」
「もっと具体的に言わなきゃわからない」
「お、男の人と話してごめんなさい」

彼の座る横に寄り添うように座れば、弾かれたような音がしてぐらりと視線が揺れた。じくじくと痛む右頬は熱を持つ。平手打ちを喰らうことは怖くない、それよりも今目の前で私に跨る彼の方が比べ物にならないほどに恐ろしかった。

「俺、何度も言ったよな」
「うん…」
「どうして、お前はいつも約束を破るんだ」
「あれは、仕事上仕方がなくて」
「なまえの仕事はデスクワークなのに、お昼を異性と共に過ごす必要はあるか」
「打ち合わせを兼ねて……」

あ、口答えしない方がよかったかも。振り上げられた拳を見て目をつぶった。
異性の人と話すを避けるのと二人で過ごす時間を増やすのが付き合ってから決めた約束だった。
彼は自分に自信がない、自身の存在をコンプレックスに感じているらしい。そのくせ脳みそはすっからかんで、人一倍独占欲と愛が深い。全くもって面倒くさい男なのだ。早く分かれてしまえばいいような気もするけれど、どうにも私も頭が空っぽで独占欲が強く愛情に飢えているみたいだ。彼は約束さえ守れば、私のことを沢山愛してくれる。スーパーダーリンである。
今日は割と頭に来ているらしい、頬をぶたれてグーパンで殴られるのは久しぶりだ。痛みに耐えていれば、彼ははっとした表情をしたのちに倒れる私を抱き起こす。

「ご、ごめんっ……なまえっ!!そんなつもりじゃなかったんだ」

女の子に手をあげるなんて俺ってば。
自己嫌悪に浸る言葉を狂ったように紡ぐ彼を見ていると、なんだか可哀想に思えてきた。ゆるり、と手を伸ばして彼の頬に触れる。それからサングラスをとれば、彼の瞳は涙の膜に覆われていることに気づく。

「大丈夫だよ、痛くないよ」
「なまえっ……」
「私こそごめんね。でもね、本当に何もないんだよ」
「俺、どうしてもなまえがいないと……なまえのことすっごく好きでっ」

分かってるよ、そう言って彼の背中に手をまわした。
全部分かってるよ、君が人一倍に愛に渇望していることも叉愛の送り先に困っていることも。

「ごめんね、次はカラ松にこんな悲しい思いさせないようにするから」
「……なまえっ、俺」

じんわりと、肩が濡れる感じがする。汗か、涙か、涎か。どれでもいいか。

「俺こそごめん。なまえが好きなだけなんだよ、本当にっ、どうしても……なまえ可愛いし、優しいから俺みたいなクズ捨てて、どこかに行ってしまわないかいつも心配なんだ」
「行かないよ、私はカラ松だけだよ」
「好き、好きっ」
「私も」
「ごめっ、ほんとに、もう殴らないから……!」

つくづく面倒臭い男にはまってしまったと思う。友達に相談すれば、別れることを進められた。自分でも別れた方が得られるメリットが多いことはわかっている。こんなメンヘラというかヤンデレというか、サイコパスニートなんて養うのは簡単じゃない。
でも、私はどうしても彼の弱さに惹かれてしまう。どうにもこうにも、彼の弱さが好きらしい。

「滅茶苦茶にしたい、なまえっ、好きっ好き好きっ」

あー、おしゃべりが少し多いかな。唇で彼のそれを塞いだ。