Heralist


暖かな日差しの当たる窓際の席。欠伸を噛み殺しながら、窓の外側のどことも言えない場所をぼんやりと眺める。校庭では体育の授業をしている生徒達が、寒そうに身を固めながら点呼をとっていた。一方こちらは退屈な国語の授業中。聞こえてくるのは拙い朗読をするクラスメイトの声と、ページをめくる音、それから微かな寝息。
各自で黙読をした方が時間もかからず内容も頭に入りやすいだろうに、指名された人が順番に立ち上がり、教科書を朗読していくことには一体何の意味があるのだろうか。
「はい、じゃあ次……時任」
そんな事を考えていたら、呼ばれてしまった。はい、と呟くように返事をして立ち上がると、当然のことながら視線は高くなった。
視界が広がる。今まで見えなかったものが見えるようになった。
「続き、読んで」
教師に促され、教科書に視線を落とす。読むべき場所はわかっているのに、チラチラと投げかけられる視線と、何やら小声で話している声が気になってしまう。
――ガキかよ、アホらしい。
心の中で悪態を付いてから口を開く。つまらない文字の羅列を目で追い、特に意味も考えずにソレを読み上げるという単純な作業。感情なんて込める必要はない。
向けられる視線から目を背けるかのように、ただ、心の中を空っぽにした。

「やっぱり岬くんってかっこいいよね」
バカみたいに騒がしい昼休み。特に何をするでもなく自分の席でぼんやりとしていると、そんな女子達の会話が聞こえてきた。
「ねー、他の男子とはレベル違うわ」
「さすがモデルって感じ!」
当たり前だろ、と口に出して言えたらどんなに良いだろうか。ただ学校に通って、勉強をして、友達と遊んでいるだけの子供とは違う。人より優れた容姿を持ち、それを使って仕事をし、働きに見合った分の給料を受け取る。そうして小学生の頃からずっと、モデルという仕事を岬はこなしてきていた。
「馬鹿、“元モデル”でしょ?」
――だからこそ、同級生が酷く幼いように感じてしまう。
職場で関わってきた大人達は、こんな風に本人に聞こえる可能性のある場所で、デリケートであろう話題に触れることはなかった。彼らは必ず、本人がその場から居なくなった後にその話をするのだ。それを汚いと感じることもあるけれど、円滑に物事を進める為にはそういう事も必要なのだと十分理解している。実際、岬自身もそのような共通の話題、噂話によって手早く距離を縮める事もあり、その効果は身を持って体験している。
まあ、コイツらには近付こうとも思わないけど。
好き勝手に他人の噂話を口にするクラスメイト達から意識を逸らそうと、窓の外へと視線を向けた瞬間、ハッキリと、鮮明にその言葉は耳に飛び込んできた。
「お前らなんて相手されねーよ。だってほら、アイツ女優とヤったんだろ」
悪意が滲み出ている言い方だ。チラリと横目で見れば、名前さえも浮かんでこない男子が女子の輪の中に首を突っ込んでいた。
本当に、相手にしていられない。
「やめなって、聞こえるよ?」
「サイテー」
そう言う女子も、酷いニヤけ顔を晒している。
――もう遅いっつの。
会話はずっと聞こえている。取り繕うくらいなら、最初から話さなければいいというのに、そんな事もわからないのだろうか。
ガタリ。音を立てて席を立つと、輪の中にいる女子がハッとしたような顔でこちらを見た。見せつけるかのようにため息を一つ吐き、机の横にかけてある鞄を掴むと輪に向かって歩き出す。こんな時ばかり空気を読むクラスメイトは押し黙り、教室内は妙な沈黙に包まれた。
「あ、岬くん、聞こえちゃった……?」
「ごめんねっ、悪気があったわけじゃなくて!」
「岬くんも色々と大変なんだもんね……っ!」
「何か力になれることがあったらなんでも言ってね!」
焦りを孕んだ声音。岬はゆるやかに口角を上げ、写真の中にいる岬と同じ甘い笑顔を貼り付けて口を開く。
「早退するから先生に言っておいてもらっていい?」
おねがい、と軽く首を傾ければその女子達は少しだけ肩から力を抜き、不器用に笑い始める。
「あ、うん! 言っておくね」
「ありがとう。また明日」
そう言ってその場から数歩進み、ああ、それから……と、言い忘れた事があるように首だけそちらに向けた。
「さっきのニヤニヤした笑い方、不細工だからやめた方がいいよ」
こんな奴らに、愛想を振りまくなんてごめんだ。


冷たい風が岬の頬に吹き付ける。もうすぐ春だというのに、未だに防寒具は欠かせない。口元までマフラーを引っ張り上げれば、吐いた息でほんの少しだけ冷えた頬が温まった。
学校からの帰り道。下校の時間にはまだ早く、学生が歩いていれば変に目立つかもしれないと選んだのは人通りの少ないルート。少し遠回りにはなるけれど、それでも他人に視線を向けられるよりはずっとましに思えた。
目論見通り、未だに一人もすれ違ってはいないけれど、それで気分が良くなることはない。最近では毎日、この体の中を渦巻くような不快な気持ちを抱えている。気を抜けばすぐに思考は沈み、考え込み、何をする気も失せてしまう。それではダメだと気を引き締め続けているのも徐々に苦痛へと変わり、そのストレスをぶつけるかのように悪態を吐く。クラスメイトへの当たりが強くなれば、比例して陰口も増え、それが更にストレスへと繋がる悪循環。
以前まではもう少し上手くやっていたという自覚があるからこそ、そのギャップがまた岬を苦しめていた。
「……疲れた」
誰にも届くことのないつぶやき。口に出すだけで幾分楽になるような気もした。けれども、その感覚を味わえるのも数秒ほどで、次に頭に浮かぶのはクラスメイトに向けられる視線の数々。そして、妙に大きく聞こえてくるあの話題。
――女優とヤったんだろ。
その言葉が、やけに耳にこびり付いていた。

石の塀に囲まれている見るからに古いアパート。夏の間、手入れもせずに雑草が伸び続けていた庭とは呼べない空間には、今は枯れた草がびっしりと敷き詰められている。その敷地に足を踏み入れ、今にも底が抜けそうな錆びた屋外階段を上る。奥から二番目の扉の前に立てば、何やら中から話し声が聞こえてきた。
それを聞き、岬は顔を顰める。ドアノブを回すと何の抵抗もなく開く扉。
「えっ」
中にいたのは見慣れた姿の母親と、その母親に覆いかぶさるような体勢でこちら見て声を上げた見知らぬ若い男。社会人らしからぬ明るく染め上げられた長い髪を見るに、おそらくは大学生だろう。
またかとため息をひとつ。
「昴、昼間なんだけど」
「やーん、岬ちゃんのエッチ!」
そんな事を言いながら、慌てることも服を着ようとする素振りもない。ぽかんとしている男が憐れに思えてくる。
「えっ、あっ、昴さん! とりあえず服っ、服着て!」
正しい反応だ。今回はまともな男なのだろう。よくもまぁ、毎度男をひっかけてくるなと感心することもある。
「ほんとごめん、えっと、弟さん……?」
「いや……これの、息子」
「……息子!?」
驚く男と何故か照れている昴。何度注意しても家に男を連れ込むことを辞めず、挙げ句の果てには最中に帰宅した岬を交ぜようとした事もあるような、駄目な母親だ。母親としてではなく、まず人間として駄目なのかもしれない。
それでも、岬をここまで育ててきたのは子への愛情なのか、自分の為なのか――。岬は、後者だと思っている。実際、まともな職にも就けない母と共に生活ができているのは、岬が幼い頃からモデルとして稼いでいる金を生活費に当てているからと言っても過言ではない。それから、周囲から差し伸べられる手のおかげだ。
「やめといた方がいいよ。昴を相手にしてると金かかるし、すぐ別の男つくるから」
男の引きつった表情。息子の口からこれだけ言えば、大体の人間はここから去っていく。そして、それが一番良い選択だ。
「もー! 岬ちゃんってばまたそんな事言って!」
頬を膨らませる37歳、バツイチ子持ち。息子である岬から見ても若く愛らしい容姿を持つ昴は、重度の浮気性なのだ。愛されていなければ気が済まず、少しでも一人の時間ができれば寂しさを紛らわすかのように別の男を誘う。魔性の女、と言えばまだ賢そうに思えるけれど、昴の場合はどうやらいつでも本気なうえに、悪意なくそのような行動をしているらしく、男と別れた日には一日中泣いていることもある。おそらくは、その幼さ、心の弱さに庇護欲を掻き立てられる男が多いのだろう。所謂、ワンナイトで済めばまだ良い方で、この男のようにまともな神経をしている人間は、彼女に入れ込み、良いように金を毟り取られ、そして浮気をされ別れるという結果になる事が多い。
だからこその、忠告だ。
男は気まずそうに視線を彷徨わせ、どうするかを考えているように見える。それもそうだ。普通、女の家に行き、いざやる事をやろうとしたらその息子に見られるなんて、そんな場面においての最善の選択なんてすぐには思い浮かばない。この状況に慣れていたら逆にどうかしていると思う。
どうぞ気にせず、帰ってください。その言葉を言ってやろうと岬が口を開いた瞬間、やっと身なりを整えた昴が身を乗り出した。
「山瀬くんっ! うちの息子、かっこいいでしょー!」
「えっ? あ、うん。凄い、かっこいい……」
この流れで息子自慢をする昴の神経を疑った。

部屋の中央を占領していた布団を隅に追いやり、その場所に卓袱台を引っ張り出す。眼についたゴミをビニール袋に詰め込んでいると、山瀬と呼ばれた男が遠慮がちにそれを手伝い始めた。
「手伝う」
「いい、帰りなよ」
「あー……ほら、お詫びにっていうか」
「俺の母親とセックスしようとしたお詫び?」
意地悪くそう返す。山瀬は困ったように、曖昧な笑顔を向けてきた。
その笑顔は大人がよく使う笑顔だ。何か都合の悪い時、後ろめたいことがある時によく見るような気がする。けれども、岬はこの笑顔が嫌いではなかった。
何を考えていたとしてもこの笑顔を見せるということは、この場を平穏に収めたい、争い事を起こしたくないと思っている証拠でもある。その対応ができるこの男は、少なくとも唐突に癇癪を起こすような人間ではないはずだ。
「……じゃあこれ、片付けてて。お茶淹れる」
ビニール袋を渡し、部屋の掃除を頼むと山瀬は素直にそれに従った。この家は昴が好き勝手に散らかすせいで、こまめに掃除をしなければあっという間にゴミ屋敷になるのだ。手伝ってもらえるのは正直ありがたい。本来ならば片付けるべきは、客人である山瀬ではなく散らかした本人なのだが、昴は畳んだ布団の上に寝転び、携帯をいじり続けている。
もしかすると、昴のその姿を見て岬に同情したのかもしれない。そうだとしたら、やはりあまり自分達に関わるべきではない。なんとかしたいと思い始めてしまったら昴の思う壺なのだ。
そんな事を考えながら茶筒の蓋を開ける。ふわりと茶葉の香りが漂ってくるものの、中にはとても三人分にはならない量の茶葉しか残っていなかった。じっと、それを見つめる。こうして見ていたら、増えたりしないだろうか。
「……しないな」
「ん?」
つぶやきに反応して、山瀬が顔を上げた。
「ごめん、なんもないから買ってくる」
「え、いいって。そんな気を使わなくても」
「どうせ夕飯の買い出しもあるし」
「あー、じゃあ俺も行く」
立ち上がる山瀬に対して、岬は首を横に振った。外してからさほど時間の経っていないマフラーを巻き、鞄を持って玄関のドアを開けると、コートに腕を通しながら山瀬が隣に並ぶ。
「ほら、学生が一人で出歩くにはまだ早いだろ?」
そう言って、悪戯っぽく山瀬は笑った。


「そういえば何年生?」
スーパーマーケットへ向かっている最中。学校から帰る時と同じく、回り道をして人通りの少ない道を選んで歩いていると、山瀬がそう切り出してきた。何度か話題を広げようとしては続かず、沈黙することを繰り返していたのにそれでも話しかけてくるこの男は、相当空気の読めない人なのか、心の底から良い人なのか――。なんとなく、後者のような気はしている。もしかすると会話が続かないのは、岬がわざとその話題を終わらせているせいだということにも気付いているのかもしれない。
「……もうすぐ三年」
「へー、じゃあ受験だ。どっか受けたい大学とか決まってんの? それとも就職?」
「中学三年」
「えっ」
「俺、中学生だけど」
山瀬の目が大きく見開かれた。
「高校生じゃねぇの!? えっ、えー……大人びてんなぁ……」
よく言われる言葉だ。大人の中で仕事をし、更には頼りない親を反面教師にしてきたこともあり、歳のわりにはしっかりしていると言われるし、大人に混ざっても違和感のない容姿をしている為にまず中学生だと思われることがない。その事実に少し得意になる。子供に見られるのは御免だが、大人に見られるのは岬にとって喜ばしいことなのだ。
「ということは俺、中学生にあのシーン見せたのか……うわー」
頭を抱える山瀬の姿がなんだか可笑しくて、思わず笑みがこぼれる。
「いいって、慣れてるし……別に山瀬、悪いことしてないし」
「……してない?」
「好きな人とセックスしたいって思うのは悪いことじゃないだろ」
「好きな、ひと」
山瀬の表情は固まり、あー、なんて言いながら頭を掻く。少しの間、彷徨っていた視線は覚悟を決めたかのように岬へと向けられた。
「好きっていうか、誘われるがまま家に上がったら据え膳で、美人とできるのはやっぱ嬉しいし、みたいな……? 出会いは酒の席で――っていう話じゃなくて、あー……今日は心配して行ったんだけど、ってこれは言い訳だな、えーと……申し訳ない」
今度は岬が大きな目をさらに大きく見開いた。
山瀬の言いたい事は理解できる。つまり、山瀬は昴に対して恋愛感情は持っておらず、容姿の優れた女性と体を重ねたいという欲求に流された結果、あの状況になっていたという事だ。それは別にいい。今までにもそうやって昴と関係を持つ男を何人も見てきた。だから、岬が驚いているのは山瀬に恋愛感情が無かったことではない。
「普通さ、それ俺に言う?」
山瀬がその、不純な動機と呼ばれる内情を暴露した事に驚いているのだ。
まじまじと山瀬の顔を見る。髪を明るく染めているわりに顔は平凡――いや、多少は整っているのかもしれない。クラスに居たら、モテないこともないであろう容姿。けれども、それ以外は至って普通な、どこにでもいそうな男。強いて言うならお人好しなところが特徴だろうか。
そんな“一般人”が、何故自分の立場を悪くするような事を言うのかが理解できない。悪人アピールをして、関心を集めようとしているのだろうか。それにしては、言い方がしどろもどろ過ぎる気がする。ならばどうして――。
ぐるぐると思考を巡らせていると、山瀬は優しげな目をして穏やかに笑った。
「大人の都合で隠し事されんのって腹立つだろ」
どきり。心臓が強く鳴る。まるで心の中を覗かれたかのような言葉に、思わず足が止まってしまった。数歩だけ進んだところで山瀬も立ち止まり、不思議そうにこちらを振り返る。
「どうした?」
――なんで大人は何も話してくれないの?
その言葉を喉の奥にぐっとしまい込んだ。
「なんでもない」
また、ゆったりと歩き出す。ちょうど追い抜くところで山瀬も岬に倣って歩き始めた。並んで歩く。歩幅はだいたい同じくらい。
「山瀬」
「はいよ」
「夕飯、食ってく?」


大人じゃない君と



(もう少しだけ、一緒に過ごしたいと思った)



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