◎
Nの食卓
恒例行事がある。
いつの間にか親しくなっていたらしいそのクラスの委員長と不良のやり取りだ。ありがちな意見の対立ではなく、不良の方が頭を下げ委員長が不機嫌そうな顔をしている――後者は、いつものことだったが。当初は戦々恐々と見守っていたクラスメイト達も、「ああまたか」という顔をしてさっさと視線を外してしまう。慣れとは恐ろしいものだ。
「お願いしまァす!!」
「断る」
「どーしても?」
「どーしても。」
「なぁ賢吾〜マジ頼むよォー!オレこのままじゃ殺されちまうよォー!!」
「自業自得だこのスポンジ頭ッ!試験の度にその空っぽの脳ミソに公式刻み付ける僕の苦労も考えろッ!」
「すんませんッしたァ!!」
びし、と完璧な角度で再び不良の――億泰の頭が下げられる。人を殺せそうな目つきでそれを見下ろす委員長こと賢吾は、苛立たしげに組んだ腕を指でとんとんと叩いた。いかにも神経質そうな仕草である。
事の始まりは、数日前に返却が始まった定期試験の答案だ。今日で全ての教科が返却され、皆一様にほっと胸を撫で下ろしたところである。賢吾も例に漏れず、成績がキープ出来たことに安心していたのだが――億泰は、違ったらしい。
「そもそも何で急にそんなことを言い出した?お前の成績が悪いのは今に始まったことじゃあないだろう」
「……いつもはよぉ、答案なんてすぐ捨てちまうんだよ。けど昨日机の上に出したまま忘れちまってて、兄貴に見られちまってよぉ」
はて、と首を傾げる。億泰の兄、形兆は今更弟の成績が悪かった程度のことで目くじらを立てるだろうか。むしろ彼が一番諦めている気がするのだが。
「こないだのテストん時、一個だけ赤点回避しただろ?おめーに教えてもらったとこでヤマ張ったら当たってたんだよ」
「祭だったな。僕は形兆先輩の涙を初めて見た」
「それでなんか希望を持っちまったみてーでよーッ、せめて追試で赤点回避しねーと殺されちまうんだよォー!」
つまり、億泰が『やればできる』ということを証明すればいいわけだ。ただし接頭語には『物凄く』がつくが。
だが、並大抵のことではない。そもそものスタート地点がマイナスなのに、基本的に億泰にとって教科書とは睡眠導入剤だ。前回の奇跡はまさしく偶然、奇跡と称するに相応しい確率で起こり得たことなのだ。それをもう一度意図的に起こすというのがどれだけ難しいか、本人が一番わかっていない気がする。
「で、連休明けの追試でせめて二教科は赤点を回避したいと」
「そうそう!何とかなんねえ?」
「そんなのお前の努力次第に決まってるだろう。ノートぐらいなら貸してやるから精々頑張れ」
「嫌だァー見捨てないでェー!」
「くっつくな鬱陶しいッ!自分の無駄なデカさと暑苦しさを考えろ馬鹿ッ!」
縋りつく億泰を渾身の力で引き剥がそうとするが、如何せん体格差が大きい。言わばもやしの賢吾に対し億泰は筋肉質だ。このまま全力でしがみつき続ければ見事な鯖折りが決まってしまい賢吾の腰と膝が物理的に大変なことになる。みしみしと不穏な音をたて始めた腰骨と圧迫された酸欠により顔を青くしつつ、ついに賢吾は白旗を挙げたのだった。
「わ……わかったから放せ!くそ、この脳筋め……!」
「マジか!恩にきるぜぇ〜!」
「言っておくがお前の為じゃなくて形兆先輩の為だからな。調子に乗るなよ。……絶対乗るなよ!」
「それフリ?」
腹いせに投げた重量のある鞄はあっさり受け止められ、そのままひょいと担がれてしまう。辞書が入っているのに何でそんなに軽そうなんだ、とギリギリ歯軋りしつつ、賢吾は億泰と共に教室を出る。どうせ億泰の教科書は全て家に置いてあるだろうから、今日はそのまま直行して勉強会だ。この後の自分の苦労を想って、賢吾は溜め息を吐いた。
******
途中でコンビニに寄っておやつを買い込み(億泰の奢りだ)、虹村邸に到着する。「ただいまー」「お邪魔します」と二人分の声が玄関ホールに響いた。吉良の事件が解決してから本格的に改装を施したこの屋敷は随分と綺麗になった。もっとも、手入れが行き届いていないのか雑然とはしているのだが。
脱ぎ散らかした億泰の靴を揃えていると、奥から足音がする。顔を上げれば形兆がいた。「お邪魔します」、と頭を下げれば形兆は小さく首を傾げた。
「どうした」
「ええと、億泰が――」
「あーーーッ兄貴!帰ってたのかよォ〜おかえりただいまァー!」
「……」
「……」
億泰は、嘘が吐けない。わかりきっていたことだ。形兆の視線が賢吾に向く。賢吾も、形兆には嘘が吐けない、というか吐きたくない。必死の形相で「なんとか誤魔化せ」と訴えてくる億泰を何の躊躇もなく切り捨てた。
「追試で赤点取りたくないから勉強教えてくれって泣きつかれました」
「億泰ゥ〜……」
「賢吾なんでバラすんだよォ!兄貴ごめんこないだのは奇跡だったんだってェ!」
ばしん、と両手を合わせて頭を下げる億泰に形兆が頭痛を堪えたような顔をする。気持ちはすごくよくわかる、と心の中で同意していると、形兆は長い溜め息を吐いてから言った。
「すまん、愚弟が迷惑をかける」
「いえ……その、お疲れ様です」
「……まあ、なんだ。勉強する気になっただけでも『成長』と言えなくもない」
満更でもない顔をしているのは、やはり血の繋がった兄弟だからだろう。素直に微笑ましいと思う。何だかんだ言いつつ、良い兄弟だと。
時折この兄弟が羨ましくなるのは自分が一人っ子だからだろう。姉がいる康一のことも。仗助との数少ない共通点でもある。
「おい何だその顔は」
「別に、いつも通りの顔ですよ」
「ニヤついてんじゃあねえぞ」
「痛っ」
ごつ、と拳骨をひとつ落とされた。無論本気でないことはわかっている。形兆に本気で殴られたら歯の一本や二本は軽く折れるし、鼻も折られる自信がある。ただこうして戯れる程度に殴られるというのは、もしかしたら少しは気を許してもらっているのかもしれない――などというのは、都合のいい妄想だろうか。
「いつまでボサッと突っ立ってる。早く入れ」
「賢吾ー、アイス食おうぜェー!お前どれがいい?チョコか?」
「おれのバニラはとっとけ億泰」
「バッチリだぜ兄貴!」
さっさと背を向けて奥に消えていく形兆の背を追いかける。視線を上げると、扉の向こう――恐らくキッチンから半身だけひょっこりと覗いている億泰が棒アイスをくわえていた。はやくはやく、と急かすように手を振っている。それに苦笑して、少し足を速めた。
「僕はチョコがいい。――それ、食べ終わったら勉強するからな。手加減しないぞ」
「ゲッ!?」
「おうそうしろ。ついでにメシでも食ってけ」
「つーことは夕飯まで勉強すんのかよォ〜……マジか……」
ぐにゃりと曲げられた背中を叩く。その手は自分だけではなかった。ばしん、といかにも痛そうな音をたてたのは形兆の手の方だ。ちらりと見上げれば、にやりと口端を吊り上げている。同じように笑い返して、涙目になっている億泰からアイスを受け取った。ほんの少し火照った体に心地良い冷たさだった。
――ちなみに。
たった半日で赤点を回避できるほど甘くはなく、賢吾の連休は全て虹村邸での勉強会に費やされたことを、ここに追記しておく。
-----
楡さんリクエスト『賢吾と虹村兄弟のほのぼのしたお話』で書かせていただきました!
書いては消し書いては消し、途中で「ほのぼのとは(哲学)」となりはじめ、虹村家の色々な事情を考えては悶えておりました。ほのぼのって むずかしい!
ただこうして平和に兄弟がわーわーしてるところを妄想するのはとても楽しかったです!そしてタイトルの割にアイスしか食べてn 気のせいです!リクエストありがとうございました!
prev|next