■ 37



まるで水の中にいるかのようだった。


揺らめく視界とぼやけた音の群れ。手足の末端がじわりと冷えて、口を開くのも億劫だ。身体がとても重いから、きっとこれは夢なのだろう。

ざわざわと鼓膜を擽るのは誰かの声だろうか。返事をしなくては、と思うのに、その意識は一瞬で消えてしまう。代わりに頭を満たすのは、『誰か』への絶対的な『好意』と『忠誠』だ。

その相手の顔や声を思い出すことはどうしても出来ないけれど、今の自分が何を為すべきかはわかる。――夢など見ている場合ではない。はやく、はやく、言いつけを果たさなくては。


賢吾は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。目を閉じて思い描くのは、自分にとっての『現実』だ。即ち、息苦しいあの感覚。意識をより奥へ奥へと落として、もう二度と馬鹿な夢なんて見ないように。



――名前を呼ばれたような気がしたのは、きっとただの錯覚だ。



******


頬を膨らませながら、億泰はもぞもぞと腕を動かした。ベッドサイドに置かれた小さなテーブルに突っ伏して足をばたつかせ、飽きたら大きく溜め息を吐く。先程から何度も繰り返されるその動きに、少し離れた椅子に腰かけていた形兆がついに痺れを切らせた。


「億泰ゥ……仮にもここは病室だぞ。落ち着かねえってんならとっととその見苦しい面と態度を何とかしろ」

「顔は生まれつきだぜェー兄貴ィー……」

「顔の骨格が歪むくらい殴ったらちっとはマシになるんじゃあないか?それか死ね」

「ひでえ!」


べそべそと鼻水を垂らし始めた弟に手元の本を投げつけて、形兆はあからさまな溜め息を吐いて眉間の皺を解すように揉む。弟が頭痛の種なのは昔から変わらないが、最近特にひどくなったような気がしてならない。

それだけ自分が父親以外のことに気を向けられるだけの余裕を得たと考えるべきなのか、甘くなったと捉えるべきなのか。結論を出すには腹正しさが勝るので、考えないことにした。


「……てめーがそうして無様に鼻水垂らしたって何も変わらねえぞ」


視線を億泰に――その奥のベッドに向ける。あの事件から数日経ったが、賢吾は未だに目覚めない。否、正確には「戻ってこない」。意識はあるようでぼんやりと窓の外を眺めていたり、目の前で動くものがあれば視線が追いかけたりはするが、理性的な反応が一切ない。

それでも、と学校の帰りに億泰は足繁く病室に通っては他愛ない出来事を話しかけたりと献身的に過ごしていた。仗助や康一、由花子も顔を出したし承太郎もよく来ているらしい。形兆が足を運んだのはこれが初めてだが、空虚な白い部屋はそれだけで憂鬱な気分にさせる。不快でない筈がなかった。


「でもさあ兄貴ィ」

「なんだ」

「オヤジだってさァ……オレほとんどなんも考えたことなくて、どーにもなんねーのかなって、正直思ってたけどさぁ」

「今すぐ死ね殺してやる」

「兄貴がスゲー頑張って、欲しかった結果にはなんなかったかもしれねーけど、でもさァ、なんつーのかなァ〜……」


うんうんと頭を抱えて唸りながら、億泰は言葉を探す。ただでさえ少ない語彙の中からなんとか自分の考えを的確に表す言葉を探しているようだが、恐らく見つからないだろうという確信が形兆にはあった。



「考えるだけ無駄だぜ億泰ゥ……自分の頭の悪さがまだわかんねーのか」

「オレがバカだってのはよォーく!よォ〜くわかってるぜェー!

んーと結局だなァ〜、なんかうまいことなったりしねーかなって期待してんだぜ、オレ」



気の抜けた顔で億泰が笑う。根拠もなにもない状態で笑うことのできる底なしの能天気さはある意味うらやましいと言えなくもないが、自分には到底無理だ。くだらねえ、と一言で切って捨てて、形兆は立ち上がる。死んでもいないくせに死んだように生きる男と同じ部屋にいるという状態に、これ以上耐えられない。


「みっともなくしがみつきやがって……死ぬってんならとっとと死ね、見苦しい」

「兄貴ッ」

「死にたくないんならもっと無様にあがいてみせろ。いい迷惑だ」


がたん、とパイプ椅子が倒れる音がしたが形兆は振り返ることなく部屋を出た。腹の底から湧いてくるどろりとしたものを飲み下し、大きく舌打ちを溢す。すれ違った看護士が目を丸くしていたが知ったことではない。


――『スタンド』とは、本人の性質を映す鏡だ。


そうであるならば、辰沼賢吾という人間が生にしがみつかない筈がないのだ。あの能力が「誰かの身代わりになる」等という綺麗なものだと思っているというのなら、空条承太郎も
その周囲も、どいつもこいつも頭が腐っているとしか考えられない。



あれの本質は、もっと醜い。もっと原始的で、利己的なものだ。だからこそ、ああして死んだような顔を晒している状態が信じられないし苛立たしい。甘えているのかなんなのか、とにかく腹が立つ。死ぬなら死ぬでいっそ潔く逝ってしまえばいいのだ。そんな覚悟もない男に命を救われた自分が、惨めになるではないか。


ともかく、形兆は二度とあんな腑抜けた顔は見に行くまいと誓った。たとえ空条承太郎に頼まれたとしてもだ。




******



頬を叩かれる感覚に、瞼が痙攣する。ひどく重い指先が反射でぴくりと動いて、意識が浮上した。目を開けると、ぼやけた景色が目に入る。

眼鏡はどこだろう、と手を彷徨わせようとするが、物理的に動かせなかった。身体は確かにだるいのだが、その前に何か、こう――縛られて、いるような。


「目が覚めたか」


声の聞こえた方向に顔を向けるが、裸眼ではほとんど何も見えない。眩しさも相俟って目が細まり、眉間に皺が寄る。男の声に聞き覚えはなく、そもそもどうして自分はこのような状況に陥っているのか、と思い出そうとして。


「おい、やめろ!」


手が使えないなら舌を噛めばいい。口を開き、勢いよく閉じようとしたところでその中に何かを詰め込まれた。――なにか、布状のものだ。


動けない身体と、ぼやけた視界。口の中の布。思い出した。思い出した。どうしようもないほど理不尽な暴力と、あの、恐怖。


「おいどうした、何で暴れるんだッ!」

「肉の芽は確かに取った筈だぜ……まさか本気でDIOに?」

「そんな馬鹿なッ!だったら肉の芽を使うまでもない筈では……」


聞き覚えのある単語が耳に入る。――ああ、そうだ。あの御方が、あの圧倒的な存在が、助けてくれたのに。自分は、一体なにを。

とにかく逃れたくて、今度こそ逃げたくて足をばたつかせた。すぐに押さえつけられた。叫ぼうとしても口の中の布が邪魔をする。身体を捻り、力の限り暴れても伸びてくる腕が邪魔をした。暴れるうちに布が引き摺り出されたが、突然自由になった呼吸に思い切り噎せた。見開いた目はぼやけたままぼろぼろと無様に雫を溢す。それにも構わず暴れ続けると、ばし、と頬を張られる。


「暴れるんじゃあねえッ!オレ達はてめーを殺すつもりなんざねえぞ!」

「う――うぅう、嫌だッ、DIO様ッ……!」

「そんな……DIOに忠誠を誓ったとでもいうのか、おまえは?」

「なにか理由でもあるんじゃあないのか?まだ学生だろう……」


困惑したような気配と声。どうしてだ、殺そうとしているくせに。


――もう嫌だ。それだけだった。痛いのも怖いのもぜんぶ嫌だ。逃げたい。助けてほしい。誰か、と手を伸ばして縋りついて、それがあの御方だった。

けれど、もう失敗してしまったから。だから見捨てられた。また失敗したのだ。一度目は父を。二度目は母を。三度目の今回が、きっと最後のチャンスだったろうに。


いつの間にか解放された、痺れる腕を持ち上げて頭を抱える。そのままぎゅうと蹲って、ただ終わりの時を待った。――背中に、掌が触れる。あたたかかった。


とん、とん、と鼓動を落ち着かせるように掌は動いた。しゃくり上げて跳ねる身体を宥めるように時折肩を撫で、遠慮がちな声が鼓膜を擽る。


「落ち着け。我々は話を聞かせてほしいのだ」


本当だろうか。信じてもいいのだろうか。――いや、どうせ未来は変わらない。あの御方に見捨てられた以上絶対に安全な場所などどこにもない。だとしたら、もういっそ諦めてしまった方がいいのではないだろうか。


ぼんやりとしたまま顔を上げる。相変わらずぼやけた視界の中に、数人の人影があった。だらりと垂れた手になにかが渡されて、指でなぞればそれが眼鏡だとわかった。かけてみればようやく視界が明確になる。――体格の優れた男達が自分の顔を覗き込むようにしゃがんでいて、喉の奥で悲鳴が潰れた。


「ああ、怖がらせたならすまない――おいポルナレフッ!承太郎と花京院を連れて外に出ていろッ!」


ばたばたという足音と何やら騒ぐ声が聞こえて、やがて静かになった。目の前の褐色の肌をした男は、疲れたように溜め息を吐く。



「漸く落ち着いたな……わたしはモハメド・アヴドゥルという。

――君の名前は?」






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