■ 32


目の前がぼやけて、何も見えない。ただ薄暗く、生臭く、湿った場所にいるのだということだけがわかった。
あまりにも身体が重くて動けなかった。座り込んだまま辺りを見回しても、物の輪郭が辛うじて判別できるだけで何も情報は得られない。

顔に触れてみると、いつも掛けている眼鏡がない。どうりで見えない訳だと納得して、なぜ手元にそれがないのかを思い出そうとして――


「――あ、ぁ、あ」


ぐ、っと喉が引き攣る。脳裏に過る光景を信じたくなかった。あんな非常識な出来事が起こるはずがない。起こっていいわけがない。
必死に否定しようとしても、自身の感覚が邪魔をする。腹を、刺された。何故か。逃げたからだ。縺れる足を動かして、無様に走って。部屋の奥に追い詰められて。
そこからはあまり思い出せない。ただ、怖かったのは覚えている。あれだけ酷かった痛みが少しずつ消えて、それと比例するように寒さが増していく。「ああ死ぬんだ」という自覚。
怖くて、とにかく怖くて。それから逃れられるなら、なんだってよかった。隣にいた誰かの声も、目の前にいた誰かの沈黙もすべて聞こえないふりをして。

それから――どうしたのだったか。冷たい腕に引きずられたのは覚えている。どこまでも醜く誰かに縋ろうとしたけれど、誰もいなくて。伸ばした腕が空を切ったと思ったら、ここにいたのだ。
震えと吐き気が収まらない。まだあの鋭利な刃先が体内に残っているような気がする。じくじくと疼くような感覚を覚えて脇腹に触れるが、特に痛みはない。しかし、手の甲に触れたシャツは湿っていた。

疑問を覚えて、シャツの端を指で摘まむ。力を込めればぽたりと液体が滴った。目を細めながら眼前にまで手を持ち上げて、また息を飲んだ。――赤い。
勢いよく視線を落としてシャツを引っ張ると、脇腹の辺りを中心に、赤く黒く染まっていた。必死に頭の隅に追いやった記憶がこれでもかと存在を主張してくる。「これは現実だ」と。




「ずいぶん『臭う』と思ったら――薄汚れた犬が迷い込んだらしい」

「ひ、」


突然前方から聞こえた声に喉が引き攣った。ぎゅうと心臓を絞られているかのように息苦しい。今まで感じたことのないほどの重圧に目線を動かすこともできなかった。乾ききった舌を晒すように口を開けたまま、広がる薄闇を見詰める。


そして――




******



「賢吾!」


目を覚ました、という事実に気付いた瞬間、億泰がベッドに駆け寄る。仗助と康一もそれに続き、承太郎も含めた四人がベッドを囲む形となった。
四人が固唾を飲んで見詰める中、寝かされている賢吾はゆっくりと瞼を動かした。自分を覗き込む顔を順繰りに見詰め、細く息を吐く。承太郎が手を伸ばし、酸素マスクを外した。


「賢吾、俺達がわかるか?」

承太郎の問いかけに、顎が小さく引かれ、張りつめていた空気が僅かに弛緩した。ほっと息を吐いたのは誰だっただろうか。康一がちらりと見上げた先では、億泰が目に涙を浮かべていた。つられるように康一の視界も僅かに滲む。


「身体の調子はどうだ。今医者を呼んだが……痛むところは?」


小さく首を横に傾ける。枕に広がった髪が微かに音をたてるのさえしっかりと聞こえてきた。また少し、空気が弛緩する。此処に来て初めて、承太郎がゆっくりと肩を下ろした。


「お前達、今日はもう帰れ。喋らせて負担をかけるわけにはいかないからな」

「えッ!」

「承太郎さん、オレまだ話してーことが、」

「今度にしろよォ〜億泰……承太郎さんの言う通りだって」


不服そうな顔をする康一と億泰をなんとか宥めて、仗助は会釈しつつ病室を出る。病院の外に向かう途中で数人の医者と看護師とすれ違った。恐らく、承太郎に呼ばれたのだろう。
外に出ると、既に辺りは薄暗くなっていた。春とはいえ夜は冷える。一際強く吹いた温い風に背筋を震わせた。


「……ま、無事でよかったじゃあねーか!意識も戻ったみてーだし、早けりゃ明日か明後日にでも話くらいできるって!」


まだ緊張の解けていないらしい億泰の肩を叩きながら、わざとらしいほど明るく言ってやる。察したらしい康一も「そうだよ」と同意して、ようやく億泰が顔を上げた。


「……そーだよなァ〜!大丈夫だよなッ!あーなんかすげえ腹減ってきた……コンビニ行こうぜェー!」


からからと笑う億泰の姿に顔を見合わせて笑いつつ、仗助と康一が同意の声を上げて善は急げと走り出す。明るく賑やかに、不安なんて吹き飛ばすかのように。
――背後から迫る薄闇など、視界に入るはずもなかった。




数日後、承太郎から賢吾の容体が落ち着いたという連絡があった。三人は授業が終わると同時に学校を飛び出し、既に通い慣れ始めた病院への道をひた走る。院内に入ってからは走るわけにもいかないので、早歩きに変更。辿り着いた病室のドアをノックすると、中から「入れ」という声が返ってきた。承太郎だ。

失礼します、とそれぞれ述べて静かに入室する。相変わらず生き物の気配の薄い部屋だったが、数日前と違う点がひとつあった。――ベッドの上に、身を起こした人物がいる。


「賢吾ォ〜!オメー起きてて大丈夫なのかよォー!」

「よかった……!大丈夫?どこか痛かったりしない?」

「おう、治してやっから悪いとこあるんなら言えよ」


表情を輝かせて駆け寄ってくる三人を、賢吾は表情もなく見ている。それはいつものことだ。確かに怒っていることや呆れていることは多いが、基本的に辰沼賢吾は感情の起伏が激しい人間ではない。だから普通といえば、普通なのだが。

真っ先に違和感を覚えたのは億泰だ。何せ三人の中では賢吾と一番打ち解けている自信がある。彼はベッドの側まで来ると、腰を折るようにしながら賢吾の顔を覗き込む。


「どーしたよ、腹痛ェのか?」

「怪我はオレが治したじゃあねーかよ、こいつの『スタンド』も発動してたんだろ?」

「ちょっと二人とも、まだその話は……」


小声で騒ぐ三人の反対側で、承太郎は視線を落とす。どこか気の抜けた様子の賢吾が小さく首を傾げていた。

――この数日間、承太郎は出来る限り情報を引き出そうとしていた。あの家で、賢吾の身に何が起きたのか。SPW財団の調査チームが検証したところによれば、現場には賢吾とその母親の痕跡の他に、成人男性と思われる『誰か』の痕跡があったらしい。しかし指紋等は見つかっておらず、捜査は難航しているということだった。

そして当の本人だ。医師同伴のもとで負担をかけないよう配慮しながら話を聞こうとした。だが――


「……なあ」


ぽつ、と賢吾の唇から言葉が零れる。騒いでいた三人はぱっと口をつぐみ、続きを待つように耳を傾けた。そんな様子に困った顔をして、賢吾は血の気の失せた腕を所在なさげに布団の上で動かし、指を擦りあわせた。


「どうして僕は入院してるんだ……?なんで、誰も教えてくれない?」

「えっ……」

「はァ?」


冗談だろうと訝しんだ仗助の前で、賢吾は心底わけがわからないという顔をしている。嘘をついているようには見えないが、腑に落ちない。
助けを求めるように承太郎を見上げたが、彼は無言で首を横に振るだけだった。


「覚えて、ないの……?」


恐る恐るといった様子で尋ねる康一に、賢吾は困惑しきった表情を返す。自分は何かを忘れている、らしい。思い出そうとしても何の心当たりもない。だが――


(何故だろう、ひどく『安心』する――……)


胃が引っくり返るような不快感と、ぶわりと浮かぶ脂汗。震えと吐き気が込み上げてくるが、それらを補って余りあるもの。――これは、『快楽』だ。



******



膝を折る。頭を垂れる。自分は屈服したのだと示す。果たして眼前の人物はうっそりと笑ったようだった。


「もう怖くないぞ――安心しろ。安心しろよ、賢吾」




ああ。ほんとうだ、こわくない。

ただそれが嬉しくて、引き攣る唇を吊り上げた。


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