■ 30

握っていた拳を開く。掌は、べったりと赤く汚れていた。

幻でも見ているのではないかと二度、三度と瞬きをしてみても、決して消えることはない。先程まで握っていた手の温度も思い出せなかった。

――ただ。


ゆっくりと力を失って、自分の手の中でだらりと垂れるあの感触だけは、はっきりと覚えている。





******


虹村形兆に怒鳴られた康一は、もつれる足を必死に動かして廊下に設置されていた電話まで走り、渡されていた名刺に記された番号を震える指で押す。何度かのコールの後、受話器から聞こえてきた低い声に涙が出そうになった。


『もしもし?』

「あッ、じょ――承太郎さんッ!ぼくです、広瀬康一ですッ!」

『康一くん……どうした?何かあったのか』

「あの、ぼくにも、何が何だか……!

ぼく達、賢吾くんのお見舞いに来て――チャイムを押しても反応がなくて、玄関が開いてたから入って、賢吾くんを探してたらッ、」


脳裏を過るのは、真っ赤な水溜りに沈む友人の姿。茫然と立ち尽くす億泰の、魂の抜けたような表情もまた生々しかった。

思い出すのも恐ろしい。あんなに沢山の血を流している人間を、康一は初めて見た。どこか内臓をやられてしまったのではないか、想像出来ないほどの痛みの中で苦しんでいるのではないか、という悪寒が背筋を走る。

呼吸が荒くなり、「それで、それで」と意味のない言葉ばかりが口から零れてくる。唇は震え、舌が絡んでしまったかのように動かない。涙で視界が滲んできた時、耳に当てた受話器から『落ち着くんだ』、という声が聞こえてきた。


『康一くん、わたしが今そちらの状況を知るためには君の言葉が頼りだ。落ち着いて話してくれ』

「は――はい、あの……血が、血がたくさん出ていて、ぼく――叫んでしまって。そうしたら、億泰くんのお兄さんが走ってきて、承太郎さんに電話しろって……」


そのまま尻つぼみになって口ごもる康一を、承太郎は責めなかった。ただ電話越しに「そうか」と呟くと、「後はわたしに任せて、君達はそこを動くな」と告げてきた。それに素直に返事をし、受話器を置こうとした瞬間。


銃声が、聞こえた。


「えッ!?」


片手に受話器を掴んだまま康一は音の出所――先程までいたキッチンの奥へと走る。聞き覚えのある音だった。億泰の兄、虹村形兆の『バッド・カンパニー』が使う銃の音だ。もしや敵が、賢吾を刺した犯人が現れたのではないか。『エコーズ』を伴って部屋に駆けこむと、先程とほとんど変わらない光景が広がっていた。――ただ、億泰が目を見開いて形兆を見詰めているのが少し気にかかる。

億泰は目玉が零れ落ちるのではないかと言わんばかりに目を見開いている。小刻みに震えてすらいるようだった。そして彼が口を開こうとしたその時、億泰の隣で沈黙を続けていた賢吾に姿が、ぐにゃりと歪む。びくりと肩を跳ねさせた億泰が身を引くと、賢吾と億泰の間にぽたりと音をたててトカゲが降ってきた。尾が切れ、頭と腹に穴の開いたトカゲだった。同時に、硬い音と共に刃先の濡れた包丁が床に転がる。


「これが……『リザード・テイル』の能力……」


康一の視線の先には、ただ青白い顔で静かに目を閉じている賢吾の姿があった。先程までの姿が夢であったかのような錯覚をしそうになるが、顔や体にべったりと付着していた血が消えていても床に広がる血溜まりは消えない。――夢などでは、ないのだ。

その後承太郎の手配した救急車が辰沼邸に到着し、三人はその場を後にせざるを得なかった。担架で運ばれた賢吾が救急車に乗せられるのを見送って、ただ立ち尽くす。細かい現場検証はSPW財団が行うらしい。これが『スタンド使い』の仕業なのか、ただの殺人犯の仕業なのか――それすらもまだわからないのだ。康一たちに出来ることは、何もなかった。


「……なんで撃ったんだよ」

「えッ?」


重苦しい沈黙の中で、億泰がぽつりと呟いた。聞き取れなかった康一が声を上げると、億泰はきつく拳を握り、形兆を睨みつけながら叫んだ。


「なんで攻撃したんだよッ!あの時まだ賢吾は生きてたじゃあねーかッ!」

「え――」


その言葉に絶句する。――そうだ、確かに自分は見た。賢吾の『リザード・テイル』が発動する瞬間を。

彼の『スタンド』は、「対象が死亡した時」に身代わりになるのだ。あの時、対象であったのは――賢吾だ。


「じゃ、じゃあ……ぼく達が見つけた時、賢吾くんは、まだ生きて……?」

「そうだよ――そうなんだよッ!オレあいつと話したのにッ……それなのに兄貴ッ、なんで撃ったんだよォ!?」


糾弾されて尚、形兆は表情を動かさなかった。いつものように眉間に皺を寄せて、どうしようもないものを見るような目で億泰を見ている。


「億泰ゥ……てめーのその貧弱な脳ミソで理解できるかはわからねーが……一応聞かせてやる。

瀕死の人間が回復するまで、一体どれくらいかかると思う?一ヶ月か、半年か……場合によっちゃあ一年以上目覚めないってこともよくある話だ」

「そ、それが何なんだよ……仗助に頼んで治してもらえばいいじゃあねーかッ!」

「その考えが甘いっつってんだよド腐れがッ!……いいか、人間ってのは血を流し過ぎれば死ぬんだ。賢吾の出血量じゃあ助かるかどうかも怪しいモンだった……東方仗助はその失った血まで戻せるのか?その確信がてめーにあるのか?」


――知らない。わからない。仗助の『クレイジー・ダイヤモンド』は壊れたものを直すことができるが、その効果がどこまで及ぶのかを億泰も康一も詳しくは知らなかった。身体の外に流れ出た、身体から失われた血を戻すことができるのかと聞かれて、自信をもって肯定することなどできない。だから、形兆に反論することもできなかった。


「いつになるかわからない回復を待つか、あの場でおれが殺すか――違いは『リザード・テイル』による復活のタイミングだ。いずれ怪我の状態をリセットされるんなら、少しでも早い方がいい……万全の状態に戻った身体のまま目覚めるのを待つ方が効率的なんだ。

そして目覚めたあいつから、犯人について聞き出す。これが最善だ……理解できたか、億泰」


形兆の言いたいことは、わかる。この事件についての真相を知るには、当事者である賢吾に話を聞くのが手っ取り早い。だが彼は重傷で話せる状態ではなかった。仗助による完全回復が疑わしい以上、別の手段――『リザード・テイル』を用いた身体状態のリセットが最も的確なのだ。

だから撃った。だから殺した。どうせ復活するのだから。理屈はわかるが――理解は、出来なかったし、したくなかった。


「だからって……復活するってわかってるからって……友達を、こッ……殺すなんて!」

「考え方を変えりゃあいいんだ……よくあるだろう、『楽にしてやった』ってヤツだ」

「そんなのッ!」


食ってかかろうとした康一を、億泰が止める。康一が見上げた先で、億泰は悲しんでいるような、怒っているような――どうしたらいいのかわからない、というような顔のまま、形兆を見詰めていた。


「なァ、兄貴……兄貴は、オレじゃあわかんねーようなこと考えてたんだろ?だからあんなことしたんだろ?」


そうなんだろ、と言い募る億泰を睨み付けて、形兆は無言のまま去って行った。再び落ちる重苦しい静寂。戸惑う康一と、立ち尽くす億泰と。


二人の目の前を、賢吾を乗せた救急車がサイレンを鳴らして走り去る。それを見送ると、億泰が「なあ康一」、とぽつりと呟いた。


「オレ達……間違ってなかったよなァ?」



何を、とは聞けなかった。

もし、昼休みの屋上で、立ち去る彼を追いかけていれば。

もし、形兆が来るより早く承太郎に指示を仰げていれば。


いくつもの可能性があった。その分だけ違う未来があっただろう。もしかしたらそれらの中に、誰も傷つかずに済んだものもあったのかもしれない。


けれど、これが現実だ。辛く、苦しく、痛みを伴う。――その重さに、二人は項垂れることしか出来なかった。




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