■ 28


億泰が騒いでいるのがわかった。特徴のある間延びした声が、薄い膜を通したかのように聞こえてくる。恐らく、ジョセフ・ジョースターの乗る船と合流したのだろう。その少し前に緊張したような承太郎の声も聞こえてきたから、何か悪い事態に陥っているのかもしれない。賢吾は、『スタンド』との同調をより深いものにした。本体がほぼ無防備の状態になるが、致し方ない。それに今いるのは自室だから、安心してもいいだろう。

ばたばたという慌ただしい足音と共に視界が上下する。どうやら億泰は『リザード・テイル』を肩に乗せているらしい。いつでも動き出せるように身構えていると、億泰は船室のひとつに駆けこんでいく。――部屋の中には、杖を持った老人が一人と、SPW財団の制服を着た人間が二人いた。

若い男二人は互いが互いを「音石明だ」と主張する。先程億泰が騒いでいたのは、恐らく音石がこの船に乗り込んだことを康一あたりから知らされたが故だろう。実際にこの二人のうちどちらかが音石だとしても、賢吾のやることは変わらない。たったひとつだけの、できることをするだけだ。賢吾は身体の力を抜き、その時に備えるのだった。






「私は財団の人間だ!音石じゃあない!」

「いいや私が財団の人間だ!そいつが音石だ!」

「どっちだっつーんだよォーッ!?」


混乱する億泰を横目に見つつ、騒ぎに乗じてこっそりと移動する。彼の肩から背中、足を伝って床に降り、素早く床を這ってジョセフの元へ。人間でいえば数歩の距離とはいえ、音石に見つからないようにしつつ移動するのはなかなか骨が折れる。きょろきょろと目を動かし、財団員の視線を掻い潜ってジョセフに辿り着こうとした時――ジョセフの背後のコンセントが、不穏にバチリと弾けるのが見えた。


『……ッ!』

「殺してやるッ、ジョセフ・ジョースター!」


億泰の疑いが財団員に向いたのだろうか、帽子の中に収めていたらしい長髪を振り乱して音石が叫ぶ。同時にコンセントから飛び出してきた『レッド・ホット・チリペッパー』が――ジョセフの胸を、貫いた。


「じじいッ!」


今まさに部屋に辿り着いたらしい承太郎が、音石を『スタープラチナ』で殴り飛ばしながらジョセフに駆け寄る。折れてしまった杖の残骸の脇に蹲る老人の背に触れて、怪訝そうな顔をした。


「じじい……無事なのか?」

「おお、承太郎……冬でもないのに静電気がひどくってのォ〜……バチッ!と目の前が白くなったと思ったら杖が壊れちまったわい。ガタがきとったんかのォ〜」


不思議そうな顔をして杖を持ち上げるジョセフ。承太郎は彼の無事を確認すると、残骸の散らばる床へと目を向ける。……予想通り、尾の切れた黒焦げのトカゲが転がっていた。目を細め、『スタープラチナ』で拾おうとする。しかし指が触れた瞬間、揺らめくように消えてしまった。そういうものらしい。


「承太郎さんッ!音石気絶しちまったッスよォ〜」

「縛って動けないようにしておけ。くれぐれも目を離すなよ」

「ウッス!あの、仗助のオヤジさんは……?」

「無事だ。賢吾に礼を言わないとな」

「たぶん反動食らって怪我してると思うンで、オレ後で見舞いに行くッス」

「ああ、頼む」


承太郎はジョセフに手を貸してやりながら立ち上がる。この後は無事に杜王港まで辿り着くだろう。しかし音石の護送やジョセフの護衛など、やらなければならないことは沢山ある。やれやれだぜ、とひとつ呟いて、承太郎は本物の財団員に指示を出し始めた。




******



目の前で白い閃光が弾けたと思った瞬間、胸の辺りを激痛が襲った。ジョセフの背後にあったコンセントから『レッド・ホット・チリ・ペッパー』が現れると悟った瞬間、賢吾はトカゲをジョセフに飛びかからせた。間一髪彼の足にしがみつくことに成功し、なんとか身代わりにはなれたようである。


「――……ッ、は」


詰めていた息をゆっくり吐き出す。以前形兆を救った時に負った火傷と似たような痛みが胸の中心から内臓まで侵している気がした。横を向いて丸くなりながら、重い腕を動かして制服のシャツを肌蹴る。
視線を落とすと、やはり胸の真ん中あたりが真っ赤になっていた。背中の同じ位置もずきずきと痛むことから、音石はジョセフを背中から胸まで一気に貫いたのだと推測出来た。

とりあえず、放っておいたら痕が残ることは確実だ。冷やして薬を塗っておかないと、と思い痛みが落ち着くのを待ってからゆっくり起き上がる。早くしなければ、そろそろ母が帰ってくる。もし見付かったらどうなるかわからない以上、迅速に行動しなければならなかった。頬に当てていた氷は既に溶けて、包んでいたタオルはぐっしょりと濡れている。これも取り替えようかと思い立ち、手に持って立ち上がる。

適当にシャツの釦を留めて、ゆっくりと部屋を出る。手すりに凭れるように階段を下り、脱衣所に入ったところで膝が折れた。ここまで深く『スタンド』との同調することは初めてだったせいか、やけに疲れていた。脂汗も出ているし、シャワーを浴びるにはちょうどよかったのかもしれない。


がちゃり。


肩が跳ねた。弾かれるように玄関を振り返って耳を澄ませると、鍵穴に鍵を差し込む音が確かに聞こえてきた。あと数秒もすれば母は家に入ってくる。脱衣所は玄関から距離があるが、それまでに服を脱いで風呂場に入ることができるかといえば――否だ。

咄嗟に、賢吾は風呂場の扉の陰に隠れた。掴んだままだったタオルを胸元で握りしめて息を潜める。かちゃん、と鍵が外れる音がして――続いて入ってきたのは、『二人分の足音』と、微かな話し声だった。しっかりと鍵を閉め直す音もする。


「誰だ……?」


母が家に客を連れてくるだなんて珍しい。休日に誰かと出かけることはあっても、家に招くというのは賢吾が知る限り一度もなかったのだ。理由はどうあれ、彼女の意識はその客人に向いている。こっそりと脱衣所のドアを閉めて、廊下から見えないようにしておいた。……勿論、ほんの少しだけ隙間を開けておくことも忘れない。何せ気になるのだから仕方ない。そっと様子を窺っていると、母は客人を居間へ案内していったようだった。ちらりと見えた客人の服装と声からして、それは男だと見当がつく。――ますます信じられなかった。


「(男……?あの人が……?)」


母の父に対する執着というのは凄まじいものだ。だからこそ彼女は自分にも賢吾にも『完璧』であることを求める。自分達を捨てて出て行った男を見返すためだけに十年に亘ってそんな振る舞いを続けてきた。今になって突然他の男に靡くような真似を、彼女がするだろうか。

――いや、もしかしたら賢吾が知らなかっただけで、職場かどこかで知り合っていたのかもしれない。悩みを打ち明け、頼りにしていた相手なのかもしれない。彼女とて人間なのだ。
信頼する相手がどこかにいなければ精神的にもたなかった筈である。
一言で表すなら、ほっとした。自分への干渉が少なくなるかもしれないという期待も勿論あったし、それ以上に彼女が陥っていた地獄のような心境から救われていたのではないかという安堵もあった。息子である自分には頼れないようなことも、歳の近い男であれば相談することもできただろう。そういう相手が見つかったというのなら、もしかしたら。もう一度、昔のような『優しい母親』に戻ってくれるのではないか――と期待するのは、些か先走りすぎであろうか。

ほう、と溜め息を吐いて、賢吾は肩の力を抜く。扉の隙間からは、居間で談笑しながらコーヒーを飲む母と男の背中が見えた。少女のように柔らかく笑う母の姿などいつぶりだろうか。もし、もし上手くいったなら。軽くなる気分と比例して、それまで賢吾を苛んでいた痛みも軽くなった気がした。今ならば静かに動くことが出来るだろうと思い、賢吾はゆっくりと立ち上がった。





******




ぴんぽーん、というインターホンの音が響く。辰沼という表札の出ている家の前にそわそわと落ち着きなく立っているのは、億泰と康一の二人だった。


「なァ康一ィ〜……ホントに大丈夫だよなぁ……?」

「大丈夫なことを祈るしかないよ……い、一応『忘れ物を届けに来た』っていう言い訳は用意してあるけど」

「素直に『お見舞い』とか言う訳にいかねーモンなァ……」


杜王港にてジョセフと出会ってから、承太郎と仗助は彼の護衛兼親子の触れ合いということで一緒に彼らの滞在する杜王グランドホテルに向かって行った。照れながらもジョセフを労わる仗助と、彼の手を取るジョセフ。心温まる光景だった。

残された億泰と康一は、『リザード・テイル』を使った反動を受けているであろう賢吾のお見舞いに来た。途中の薬局で冷却材やガーゼなどある程度の医薬品は買ってきたが、こんなに適当でいいのだろうかという不安がある。前回は門前払いを喰らったため、今度こそ成功して欲しいという希望もあった。

しかし、いくら待っても返答はない。首を傾げつつもう一度鳴らし、待つ。暫く待ってみたが、やはり返事はなかった。


「いないのかなあ」

「アイツ寄り道しねーし帰ってる筈なんだけどなァ」


そっと玄関まで近寄り、音をたてないようにドアノブを回し、手前に引く。――開いた。


「えッ!」

「鍵かけてねーとか不用心だなァ」

「そ、そういう問題じゃあない気がするんだけど」

「見ろよ康一ィ、玄関にあるの、賢吾の革靴だけだぜ。女物の靴がないってことは、お袋さんはまだ帰ってきてねーんじゃねえの?」

「そっか!億泰くん冴えてるゥー!」

「だろォー!?」


この家にいるのが賢吾だけならば遠慮する必要はない。周囲にバレないよう、するりと玄関に入り込み、小声で「お邪魔しまーす」と告げてから手に靴を持って家の中へ。
いるとしたら二階だろうか。恐らく自室にいるだろうと推測し、二手に分かれることにした。一階を康一が、二階を億泰が。階段を爪先立ちで昇って行く億泰を見送って、康一も静かに辺りを見回す。

廊下の奥に扉が見える。数歩先は左右の扉。右は、洗面所と脱衣所を兼ねたスペースのようだ。風呂場のドアは開け放され、ここには誰もいないのがわかる。左、居間。暖かみのある色で纏められたインテリアは心が安らぐような気さえする。そこで気付いた――テーブルの上に、カップが置いてある。


「賢吾くんが飲んだのかな……?」


近付いてみようとした康一の足が、何か硬いものを踏んだ。パリ、と微かな音をたてる。びくっと肩を跳ねさせながら足元を見ると、銀色の細い何かがあった。


「――眼鏡?」


見覚えのあるものだった。いつも不機嫌そうな彼の視線を増強しているのではないかと密かに疑っていた、賢吾のものだ。
どうして床に、と思いつつ拾おうと腰を屈める。フレームが曲がっているのは昼間仗助に殴られたせいだろうが、レンズが割れているのは自分のせいだけではない筈だ――たぶん。


「ど、どうしよお〜……弁償かなあ」


しゃがんだままおろおろしつつ周囲を見回すと、テーブルの足元には色々なものが散らばっているのが見えた。ぶちまけられた、黒い液体も。


「これ……カップの欠片?それと、コーヒーかな」


触らないようにしつつそう分析する。位置的に見て、テーブルから落ちて割れたのだろう。ピンク色のカップの欠片が散らばっているということは、この部屋には二人いたことになる。
恐らく片方は女性……賢吾の母親だろう。


「ま、まさか、賢吾くん早まっちゃったんじゃ」


最悪の予想が脳裏を過る。ただでさえ鬱憤が溜まっていたであろう賢吾が、その苛立ちを母親にぶつけてしまったのではないかと。賢吾の体格が標準より僅かに下とはいえ高校生だ。女性ひとりに暴力をふるったらどうなることか、想像するだに恐ろしかった。

探さないと、と眼鏡の残骸を手にしたまま立ち上がる。居間はキッチンと繋がっているらしく、カウンター越しに奥の空間が見えた。少し歩を進め、年季の入った食器棚の陰から奥を覗き込んだ時――『それ』が見えた。


「え――……」


『それ』は黒い塊だった。少なくとも、康一には最初、そう見えた。しかし――よく見ると、それは人の頭だった。項垂れて、頭の天辺をこちらに向けているのだ。

『それ』は赤い湖だった。腰の辺りから生えた『何か』を基点として溢れ、元は白かったであろうシャツを染め、足元に至るまで流れ出しているのは。


見覚えのある『誰か』の、見覚えのない姿だった。そしてその『誰か』の正体に嫌でも気付いてしまった瞬間――



「あ、あ、………――うわあああああああああああああああああああああああああああッ!!!」



康一は腹の底から悲鳴を上げた。誰かに来て欲しかった。否定して欲しかった。こんな――こんなことが、起きている筈がないのだと。馬鹿なことを言うなと叱って欲しかった。

しかしその願いは叶わない。悲鳴を聞いて駆け付けた億泰もまた、ただ茫然と立ち尽くすことしか出来なかったからである。



「賢吾、」



零れるように呼ばれた名前に、応える声はない。二人の視線の先で、壁に凭れて座り込み項垂れている『それ』こそが、辰沼賢吾なのだから。


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