■ 25



夜のちょっとした脱走劇は、そのまま静かに幕を閉じた。

賢吾は恥ずかしさと赤くなった目元を見られたくないという理由でずっとそっぽを向いていたし、億泰も柄ではないことをしたという照れ臭さがあって同じようにそっぽを向いていた。賢吾が手を滑らせて空になったココアの缶を落とした音を切欠に、なんとなく帰る空気になったのである。

無言で立ち上がり、億泰は缶を拾って先程そうしたようにゴミ箱に向かって放り投げる。今度も綺麗な放物線を描いて吸い込まれていった缶を見送って、二人並んで公園を後にする。
賢吾の家までの数分間を無言で歩き、やがてあの窓の下に辿り着いた。億泰が「ちょっと待ってろよォ〜」と物陰に消えていき、折り畳まれた梯子を持って戻ってくる。


「……用意周到だな。僕が出てこなかったらどうするつもりだったんだ?」

「そりゃあよォ〜、兄貴に窓ブチ割ってもらってオレが部屋入ってよォ」

「わかったもういい」


素直に応じてよかった、と安堵の息を吐く。そうでなければ攫われているところだった。部屋の窓にかけられた梯子を慎重に上がって部屋に戻る。窓枠に足を掛けた時、今自分が履いている靴は形兆に借りたものだったと思い出す。窓枠に腰掛けるようにして振り返り、下で梯子を押さえている億泰に「先輩にお礼を言っておいてくれ」と伝えてから放り投げた。『ザ・ハンド』が現れて器用にキャッチし、そっと地面に置く。一連の動作を見届けてから今度こそ部屋に戻り、改めて億泰を見下ろした。


「にじ……億泰」

「ン〜?」

「その――」


口にしようとして、あまりの照れ臭さに思わず口を閉じた。何せ初めてのことである。誰かに――友人に、感謝を伝えるなんてことは。
心の内を素直に伝えることが、こんなに難しいことだとは思わなかった。言葉にならない声を漏らしていると、「へへへ」という抑え気味の笑い声が聞こえた。見下ろすと、畳んだ梯子を脇に抱えた片手で口元を隠している。だが、目元が緩んでいるため隠し切れていない。……盛大ににやけているのだ。

憮然としたまま睨み付けると、慌てたようにばたばたと手を振ってくる。誤魔化すように屈託のない笑みを浮かべて、億泰は小さく叫んだ。


「また明日学校でなァー!」


そしてそのまま背を向けて走り出す。途中で梯子ががしゃんと音をたて、びくっと飛び上がっていたが――その背中もやがて、暗闇の中に消えていった。
見送った賢吾はしばらく億泰が消えていった暗闇を見詰めていたが、ふと視線を上げる。空には星が輝いていた。昔から窓に取り付けられていた格子のせいで、自室の窓から星を眺めるのは初めてだ。――ああ、こんなに美しいものだったのか、と感嘆の溜め息が零れる。
穏やかな風が肌を撫で、髪を揺らす。解放感とはこういうものをいうのだろうか。息を大きく吸って、吐いて。週末にでも母と話をしてみよう、と心に決めて、賢吾は眠ることにした。
『また明日』なんてありきたりな言葉に浮き立つ気分というのも、悪くはなかった。



*****


浮足立っていたのは億泰も同じだった。だからこうして、いつもよりずっと早く登校してきたわけだが。
席についたままそわそわと貧乏揺すりをしているうちに始業のチャイムが鳴り、担任が入ってくる。首を傾げる億泰をよそに彼は「出席とるぞー」と気の抜けた声で生徒を呼び始めた。


「えーと辰沼は……ああ、風邪って連絡入ってたっけ。困ったなァ、頼みたい仕事あったんだけど」


そんなぼやきが耳に入る。億泰は唇を尖らせた。「ンだよォ……」と呟くが、そういえば昨夜、しっかり上着を羽織っていた自分や兄とは違い賢吾はパジャマ代わりの薄着姿だった。
春とはいえ夜はまだ冷える――風邪を引いてもおかしくはない。

ひょっとして自分のせいじゃあ……と冷や汗を流す億泰の気も知らず、授業は始まった。一時間目の国語の時間、億泰はずっと頭を抱えていた。いつものことなので誰も気にしていなかった。



昼休み、いつものように仗助や康一と合流して昼食を摂る。康一が「どうしたの……?」と声を掛けたが億泰はべそをかきながら菓子パンを頬張っていて何を言っているのかわからない。辰沼がいないことと何かしら関係はあるんだろうなァと半ば呆れながら、仗助は「飲みこんでから喋れよォ億泰」と溜め息を吐いた。


「辰沼が休みだからって落ち込みすぎなんじゃあねーのォ〜?風邪くらい誰でもひくじゃあねーかよォ」

「そうそう、そんなに気にしなくってもいいじゃあないか!お見舞いは――ええと、難しいけど」


先日追い返された時のことを思い出して笑みを引き攣らせる康一。億泰は「ちげーんだよォ」と鼻を啜る。
そして鼻声ながらに昨夜の出来事を掻い摘んで話した。兄と共に部屋から脱出させたこと。公園で色々と話したこと(詳細は秘密だ。『プライバシーの尊重』である)、現状を変えるために母と話し合ってみると言っていたこと。

思い出すと笑みが込み上げてくる。普段あれだけ本心を露わにしない賢吾が、昨夜はどこまでも本音だった。なによりそれを自分にだけ見せてくれたというのは――なんというか、優越感がある。ウヒヒヒヒヒと本人なりに控えめに笑っていると、仗助と康一に不審なものを見る目をされた。自粛しよう。

オホンと大きく咳払いをして、話に戻る。結論として、お見舞いは見送ることにした。賢吾が母親と話し合うと決めたのなら、何らかの結果が出るまで静観しようということだ。余計な真似をして事態が悪化しないとも限らない。もし相談を持ちかけられたり、また様子がおかしいようであればその時は力になってやろうと。


「つーかよォ〜……今日の放課後は何にしてもオレは行けねーんだよなあ」

「何か用事でもあるの?」

「……昨日、オレん家に音石が現れたんだよ」

「えッ!」

「あいつは電気の通ってるところならどこにでも現れる……家の中でも安心できねーってことだろうな。

だから今日はちょっと対策でも考えようかと思ってよォーッ」

「そのことは承太郎さんには伝えたの?」

「電話しといたぜ。放課後会いに行くつもりなんだよなァ」


じゃあせっかくだし皆で行こうよ、という康一の言葉に仗助と億泰は頷き、それぞれの昼食に専念する。話も緊迫したものから何てことのない雑談へと移行する。――平和な光景だった。



*****



「(まさか風邪を引くとは思わなかった)」


布団の中で賢吾は唇を噛んだ。いくらなんでも浮かれすぎた。億泰と話していた時は緊張やら恥ずかしさで高揚していて身体が火照っていたのだろう。寒さを感じなかったのだ。だが目覚めてみれば節々は痛むし身体は重いし頭はぼんやりする。いつもならば時間通りに起きてくる賢吾が一階に降りてこないのを訝しんだ母親が様子を見に来て「熱があるわね」と言われたことでようやく自覚したのだ。

仕事を休んで看病しようとする母親をなんとか送り出して、家には賢吾ひとりだ。薬を飲んで熱が下がってきている今、眠気でぼんやりする頭の中はひどくごちゃごちゃしていた。


「(たぶん――母さんも、わかってくれる。今まで話そうとしなかった、向き合おうとしなかった僕の怠慢なんだから、僕が動かないと)」


どんな理由であれ、大切にされているとは思う。実際、それに甘えるばかりで何もしなかった結果が今の状況なのだ。変える為には、そこを抜け出さなければならない。
怖くないと言えば嘘になる。逆らえば首を絞められるだけでは済まないかもしれない。しかし、自分には『リザード・テイル』がいる。一度でだめなら何度でも根気強くやるしかない。
――なんといっても、『約束』したのだから。


「……………ッ!」


昨夜のことを思い出すと、顔に血液が集中する感覚がする。熱のせいだけでなく赤面していることだろう。――なんて恥ずかしい真似をしたんだ!

枕に顔を埋めて落ち込んでいると、耳にひやりと何かが触れた。顔を上げると、目の前に無機質なトカゲの顔がある。『リザード・テイル』の一匹が、首を傾げて賢吾の顔を覗き込んでいた。


「……いや、うん。やるよ――頑張ろうな」


寝返りをうって仰向けになりながら、トカゲの顎の下を擽ってやる。表情が変わることはないが、なんとなくペットでも飼っている気分だ。ゆらゆらと尻尾を揺らしているし不快でもないのだろう。穏やかな気分で、賢吾は目を閉じる。明日こそ学校に行こう、と静かに決意しながら。



[ prev / next ]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -