■ 24
「履け」
そう言って形兆が差し出してきたのは一足のスニーカーだった。困惑した顔をする賢吾に「裸足で歩く気か」と呆れてみせる。目を丸くして、小さく礼を言う賢吾の横では、億泰があからさまに目を背けて下手な口笛を吹いていた。
「億泰ゥ〜……やるってんなら準備ぐらいしやがれッ!」
「は、梯子なら持ってきたじゃねーかよォ〜!」
「汚れた足で部屋に戻ったら脱走がバレるだろうがッ!おれを巻き込んだ以上半端なマネは許さねーからなッ!」
小声で怒鳴りあう兄弟を横目に見つつスニーカーを履く。爪先も幅も自分の足より大きくてひどく不格好だったし歩きにくいことこの上なかったが、何故か胸の内にぽわっと光が灯ったような気がした。爪先を持ち上げて、ふらふらと揺らす。億泰を黙らせたらしい形兆に思い切り舌打ちされて、肩が跳ねた。
「不満があるってんなら裸足で歩きやがれ。後でどうなっても知らんがな」
「いえ、あの……ありがとうございます」
再度舌打ちして、形兆は歩き出す。億泰に「行こうぜェ〜」と肩を押されて、ゆっくりと後に続いた。
どこに行くとか、何を話すとか、目的を何も知らない以上そうするしかない。こうして夜中に外に出るのが初めてで、昼間や夕方とは違う周囲の風景に目を奪われそうになったが歩くことに集中しないと転んでしまいそうだ。前を行く形兆と隣を歩く億泰に遅れないよう、必死で足を動かした。
到着したのは、賢吾の家から程近い小さな公園だった。聞けば億泰達の家からもそう遠くないそうで、ちょうど中間地点だということだろう。ぽつぽつと点在している街灯がうっすらと周囲を照らしているが、人気のない公園は寒々しく、どこか不気味だった。
そんなことはまるで気にならないらしく、虹村兄弟はさっさと敷地内に入り、ベンチの傍に立つ。手招きされたので近寄ると、「ちょっと待ってろ」と賢吾を座らせて億泰が自販機に向かって走って行った。形兆と二人で取り残されて沈黙だけがその場を満たす。どうしていいかわからず、立ったままの形兆をこっそりと見上げてみた。
――険しい顔をしている。
話したことは、一度しかない。あの病室での一度だけだ。億泰から聞く限りはかなりの潔癖というか、独自の美学があるというか。かなりしっかりした人物だということが窺えた。
貸しだの借りだのというやり取りも既に終わっている。ならばなぜ、この人は今この場にいるのだろう。それが不思議でならなかった。
「あの……あなたは、」
「形兆だ」
「……形兆、先輩は。どうしてここに?この間のことなら、もう――」
「億泰の奴がうるせえ。それに、『勝手にさせてもらう』とおれは確かに言ったぞ」
「そんな、」
「グダグダ抜かすな鬱陶しい。いいか、形はどうあれてめーに救われたのは事実だ。だってのにてめーはカビ生えたみてーにウジウジしてやがる……許せねえだろ?」
口調は穏やかなのに、見下ろす視線は鋭い。殺気すら篭っていそうだった。プライドの高い形兆にとって、命の恩人にあたる賢吾が自分の眼鏡に敵う人間でないというのは許せないのだろう。億泰から今回の話を聞き、ちょっと気合いを入れてやろうと手を貸した次第とのことだった。
「細けえ話は億泰としろ。……いいか、次会った時にもシミったれた顔してやがったらブチのめすからな」
そう言い放ち、形兆は公園の出口へ歩き出す。入れ違いに飲み物の缶を抱えた億泰が戻ってきて、「あれっ兄貴帰っちまうのかよォ〜」と首を傾げる。
「あとはてめーらの問題だろうが。おれは帰って寝る」
「ミルクティー買ったけど飲む?」
「いらねえよそんな甘ったるいモン」
舌打ちを残し、今度こそ形兆は夜の闇へと消えていった。少しの間それを見詰めていた億泰が、「まいっか」と呟いて賢吾の隣に腰を下ろした。
「ほらよ」と手渡されたのは、暖かいココアだった。じっとそれを眺める賢吾の横で、億泰はミルクティーの缶を開けて勢いよく飲んでいる。
「コーヒーとココアで迷ったんだけどよォ〜、やっぱ甘い方がうめーよなぁって思ってよー」
「いや……別にどっちでもいいけど」
「マジ?ま、奢りだからがばっと飲んじまえよ」
両手で包むように持っていた缶のプルタブを引く。かしゅ、と軽い音がした。口元に運べばふわりと甘い香りがして、誘われるように口をつける。
春先とはいえ、夜はまだ冷える。一応上着は羽織ってきていたが、いつの間にか冷えていたらしい身体に染み渡るようだった。
少しの間、無言が続く。飲み干したのか、億泰が手の中で缶を弄び始めた。
「なー賢吾」
「……なんだよ」
「今楽しいか?」
「……は?」
質問の意味がわからない顔を横に向けて見上げると、億泰はいつもと同じように下唇を突き出して、鼻歌でも歌いそうな顔をして手元の缶を見詰めている。
「オレはさー、割と毎日エンジョイしてるワケよ。勉強はサッパリわかんねーけど、仗助とか康一とツルんでんのが楽しいし、おめーに何だかんだ文句言われんのもけっこー楽しんでる」
「……変なやつだなお前」
「ギャハハッやっぱそうだよなァ〜!今までおめーみてーなヤツ周りにいなかったからよォ、新鮮なのかもしんねー」
一頻り笑うと、億泰は缶を何度か手の中でぽんぽんと投げ、腕を振りかぶる。ゴミ箱目がけて放物線を描いた缶は、見事にゴミ箱に吸い込まれていった。
よっしゃ、とガッツポーズを決めると、彼はそのまま脱力したかのようにベンチに凭れかかった。ずるりと投げ出された足をふらふらと揺らして、頭の中で必死に言葉を組み立てていく。
「夕方おめーがなんか言いかけた時よォ〜……結局聞けなかったし、聞きてーなって思うんだけどよォ」
「……」
「でもこーいうのってアレだろ?なんだっけ……カロリー?っつーの?あんま聞かねー方がいいのかなって気もするんだよなァ〜」
「……ひょっとしてプライバシーのことか」
「そう!それだよそれッ!
まーとにかくよォ、おめーがお袋さんに強く出れねーってのはわかった……正直ムカついたぜェ〜」
「――やっぱりあの後、うちまで来たのか」
「ン?まあ追い返されちまったけどな」
何てことのない風に言う億泰だが、恐らく母から聞いたはずだ。賢吾が彼らのことを、友達ではないと言ったことを。
彼の顔を見ることが出来なかった。視線を上げて、もし軽蔑しきった目が自分を見ていたらと考えると――震えが止まらない。
缶を握る手に力が籠る。爪がかちかちと耳障りな音をたてて、それすらも不安を煽った。
自分が選ばなかった癖に。不安に感じる資格さえない。詰られることを予測してここまでついて来た。覚悟は、未練がましいことに、まだ出来ていないけれど。
「……聞いたんだろ。もう話しかけるなよ。僕は、お前なんか――」
ぐ、と喉に何か重いものでも詰まったかのように感じた。突き放してしまえばいい。そうしなければならない。また前のような生活に戻るためには、そうするしかない。
息を吸って、吐いて。忙しなく跳ねる心臓さえ煩わしい。腹に力を込めて、声を。
「ったくよォーおめーは難しく考えすぎだっつーのよーッ!」
「ぐえっ」
勢いよく背中を叩かれた。気合いを入れていた分、間の抜けた声が出る。噎せながら億泰を睨みあげると、ひどく真剣な顔で賢吾を見下ろしていた。思わず、姿勢を正しそうになる。
「ダチ相手にしてんだ。言いたいこと言って、やりたいことやれよ。そんだけの話だぜ」
「僕、は、」
言いたいこと。やりたいこと。どちらも単純だ。けれど今まで全く触れてこなかった。だからこそ単純で、難しい。
――何より、こんなに情けない状態で応えたくはなかった。せめて、自分がつけられるケジメくらいはつけておきたい。ここまでして向き合おうとしてくれた億泰に対する誠意というものを、見せなければならないのだ。
「……虹村」
「ン〜?」
「少し……時間をくれないか。母さんと――話してみる」
億泰はきょとんとした顔で賢吾を見ている。今度こそしっかりと目線を合わせて、口を開いた。
「あの人に逆らうなんて、考えたこともなかった。だって――怖くて仕方なかったんだ、あの人に捨てられたらって思うと、動けなくなった。今、考えてるだけでもすごく怖い」
右手が億泰の眼前に差し出される。確かめるまでもなく、血の気が引いた指先はがくがくと震えていた。声もまた然り。
何度もつっかえて、ひどく聞き辛い宣言だった。けれど、今。賢吾は、支えを放して立ち上がろうとしているのだ。だから億泰は、それを黙って聞いている。
「けど……僕だって、これじゃダメだってわかってるんだ。自分で歩かなきゃ――友達だなんて、言ってもらう資格もない!僕だって、一緒に……!」
――今まで、これほどまでに必死に口を動かしたことがあっただろうか。頭の中はぐちゃぐちゃで、何が言いたいのかさえはっきりしない。
それでも伝えたかった。嬉しかったこと。羨ましかったこと。確かに、楽しかったこと。
けれど全てを伝えるには、自分はあまりにも言葉を知らなくて。何冊も本を読んだくせに肝心なところで役に立たない。それが悔しくて視線を落とす。どうしてもっと素直に直接伝えるための言葉が咄嗟に出てこないのだろうと、唇を噛んだ。
「賢吾」
名前を呼ばれて、恐る恐る顔を上げる。――にんまりと笑った億泰が、賢吾の顔を覗き込んでいる。思わず仰け反った。
「なッ、何ッ、」
「いやァ〜?うんうん、いいんでねーのォ〜?オレとしてはじゅーぶんだぜェー!」
がし、と無理矢理肩を組まれる。やたらと上機嫌な億泰の様子に困惑した。先程までは、あんなに真剣な顔をしていたのに。固まったままでいる賢吾の肩をばしばしと叩き、億泰は嬉しそうに声を上げた。
「あ、でもよォ〜一個気にくわねーんだけどよぉ……おめーさっき兄貴のこと『形兆先輩』とか呼んでたよなァ」
「え、だって……名字だとお前と被るからって」
「ンだよォ〜ズリーじゃねーかよォー!兄貴だけ名前呼びとかッ!オレはッ!?」
「は!?」
肩を組まれたままなので逃げることができない。ぐっと顔が近付いた。必死に押し返そうとするも片手は塞がっているし、そもそも力では敵わない。「近いッ!」「おめーが呼ぶまで放さねーかんなッ!」というやりとりは、賢吾が力尽きたことにより終結する。ぜーぜーと息を切らす賢吾に対し、億泰は何ともないらしい。再びにやにやと笑いながら顔を覗き込んできていた。
「……わかった、わかったよもう……僕の負けだ、くそ。しつこい奴め」
大きく息を吸って、吐く。先程と同じ動作の筈なのに、今はちっとも苦しくなかった。火照った顔を冷ますように手で仰いで、そして。
「その……少し、頑張ってみるから――頑張るから。また僕が逃げそうになったら、殴ってでも止めてくれ。……頼む、億泰」
あまりにも照れくさくて、途中から視線は下を向いてたし、声もきっと蚊の鳴くほどに小さかったけれど。
それでも、ただ無言で肩を抱く手に力が籠り、励ますように二度、肩を叩かれて。
――涙が出るほど、嬉しかった。
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