■ 22


がん、と鈍い音が響く。強かに後頭部を打ちつけて、思わず舌を噛みそうになった。なんとか堪えてそっと目線を上げると、どろりと濁った瞳とぶつかる。まばたきもせず見詰めてくるそれが、賢吾は恐ろしくて仕方がなかった。



「ねえ賢吾、あの人たちはお友達?あんな、見るからに不真面目で、馬鹿みたいな恰好をした――」


ふわりと吊り上がった口元の、その端はひくひくと震えている。ああ醜いなとまるで他人事のように考えた。外面を繕うのはあんなに上手いのにと思考が進んだところで、きっと自分もそっくりなのだろうなと自嘲する。ただ、作り上げた『自分』が目の前の彼女の理想に基づいたものであったというだけで。


「なんで笑ってるの。お母さん、怒ってるのよ。約束したわよね、完璧な人間になるって!
……ああ、もしかして。苛められてるの?そうよね、そうなのよね?だって賢吾はいい子だもんね、お母さんとの約束、ちゃんと守れるもんね?」


肩を掴んでいるのはシミ一つない真っ白な手だった。どこからそんな力が出るんだろうと不思議になってくる。綺麗に磨かれて、薄いピンクのマニキュアを塗った爪が制服の上から肩に食い込んで痛かった。右肩にかかっていた手が外れ、するりと頬を撫でる。まるで大切な宝石でも扱っているかのような手付き。


いつもそうだ。どんなに怖い顔をされても、どれだけ痛いことをされても、こうして『大切にしている』という態度をとられると逆らう気もなくなってしまう。彼女が自分の母親だから。自分が彼女の息子だから。
父親が帰ってこなくなってから、泣いている母の姿を何度見ただろうか。その度に見せる「大丈夫よ」と微笑む顔がどれだけ痛ましかったことか。いなくなってしまった父の代わりに自分がしっかりしなければ、母の支えにならなければと強く思った。

間違っていなかった筈だ。間違っていない筈だ。彼女の期待に添えなかった自分が悪いのだ。――だから、罰を受けるのは、当然のことで。


「違うわよね。違うわよね。違うって言って。そうでしょう?お友達なんかじゃあ、ないわよね?」

「――――ッ、ぅ、ぐ」

「黙ってたらわからないでしょう?ねえ、ほら、ちゃんと言って。違うって言って。言いなさい!」


頬を撫でていた細い指先が喉に食い込む。ぐっと圧迫された気道にえずきそうになるが何とか堪えて、彼女の望む答えを口にしようとした。


――ああ、でも。



脳裏に閃いたのは、あの能天気な声だった。間延びした口調、くだらない話。それに続くように蘇るのは、ずっと「馬鹿馬鹿しい」と聞き流していた些細な会話の数々。どうして今こんなことを思い出すんだろう。さっさと否定してしまえばいいのに。今まで通り、正しいと思ってきた通りに。
声が出なかった。指の食い込む喉よりも、胸の奥がずっと苦しい。耐え難いほどに。目の前では母が、頭の中では彼らが自分を呼んでいる。選ばなければならない。ここで生き延びるためには、どうしたら。


「賢吾」



視界が白くなる。





*****



朝、億泰は普段よりもずっと早く登校していた。いつもならば遅刻寸前、もしくは遅刻、最悪の場合学校に来ないという体たらくである故にかなりの珍事である。兄の形兆にも訝しげな目をされたが、そわそわと落ち着きのない億泰はそれどころではなかった。
前日の放課後、辰沼親子が去った後。残された三人は顔を見合わせ、「なんだかヤバそうだぞ」と話し合った。


「なんつーかよォ……目がヤバくなかったか、あいつのお袋さん」

「ぼ、ぼく震えちゃったよッ!全然笑ってないんだ……スッゴク怖かったッ!」

「ありゃあよォ〜、オヤジの方を探るまでもねーって感じだよなァ〜」


うんうん、と頷く康一と、バツが悪そうに頬を掻く仗助。億泰といえば、何故だかひどく冷静であった。立ち去る寸前の賢吾の顔が頭から離れない。それまで眼鏡の奥で戸惑うように揺れていた瞳が、母親の姿を見た瞬間凍り付いたのだ。そのまま一切の表情を無くして俯いた、あの瞬間。納得してしまったのだ。「悩みの原因はこれか」と。

億泰は、難しいことを考えるのが苦手だ。ごちゃごちゃ考えて後手に回ってしまうより、とにかく突っ込んでしまった方が早い。それでもし壁にぶつかったら、壁ごとブチ破る。それが虹村億泰という男だ。
つまり――仗助と康一がどうしたものかと顔を見合わせている間に、うむとひとつ頷いた億泰はさっさと歩き出してしまった。あの親子が去って行った方向へ。


「お、おい億泰……オメーどうするつもりなんだ?」

「決まってんじゃねーかよォーッ、追っかけて話聞くんだよ」

「ど、どうやって?ていうか押し掛けちゃっていいのかなあ」

「ンなこと気にしてらんねーってェ!グダグダしてたらなんか……なんかアレだろ!」

「アレってなんだよ……」


呆れた顔をしながらも、仗助は億泰の後を追う。康一もそれに続いた。
この間もそうだった。一日間が空いた、たったそれだけで賢吾の様子はおかしくなった。それだけの影響力が彼の母親にはあるのだろうし、恐らく賢吾は彼女に逆らえない。もし彼が意にそぐわない行動を強いられているのだとしたら、何とかしてやりたいという想いだけがあった。
仗助と康一も同じ気持ちだろうと思う。仗助と賢吾の仲が良好だとは言い難いが、何だかんだ言いつつ仗助は『イイ奴』なのだ。目の前であんな様子を見せられた以上、「手を貸してやるか」くらいには考えてくれているはずだった。


――彼らには、すぐ追いついた。こっそりと物陰に隠れるようにしながら尾行し、家まで辿り着く。手入れの行き届いている綺麗な家だった。玄関周辺には季節の花が数種類植えられていていずれも色とりどりの花を咲かせていたし、目立ったゴミもない。
玄関に消えていく親子を見送って、三人はそっと家に忍び寄る。こっそりと耳を澄ませてみても何も聞こえない。互いに顔を見合わせて、しばらく無言の時が過ぎた。


がたん。


何か重量のあるものが床に落ちたかのような音がした。びくりと顔を上げ、三人は一斉に玄関を見遣る。数十秒後、何事もなかったのかと息を吐く。これからどうする、と視線を交わし、「とにかく辰沼に話聞いてみようぜ」と囁く仗助。頷いて、三人の中で一番『マトモ』に見える康一が代表してインターホンを押すことになった。
気が進まないなァとは思いつつ、このままではモヤモヤした気持ちが晴れない。意を決して、康一は背伸びしながらインターホンを押した。


ぴんぽーん。


何とも穏やかな音が響く。冷や汗をかきながら反応を待つ三人だったが、スピーカーから聞こえてきたのは至極穏やかな声だった。


『はい、どちら様ですか?』

「あッ、あの、ぼく広瀬康一といって、賢吾くんのトモダチで」

へへ、と頭を掻きながらカメラに笑いかける。インターホンには小さなレンズがついていて、家の中からインターホンを押した相手の姿を見ることができるタイプのものだった。
暫く沈黙が続き、康一は笑みを引き攣らせる。もしかして接続が切れてしまったのかと様子を見に来た仗助と、億泰がインターホンを覗き込んだ。


『……ああ、やっぱりあなた達なの。あの子を苛めて、あの子の将来の邪魔をする……』

「え、えっ?」

『あなた達みたいなのに纏わりつかれて迷惑してるの。うちの子に近寄らないでくださるかしら』


混乱しきる康一の肩をぐっと引き、億泰が前に出た。カメラを睨みつけながら口を開く。


「ンなこと決めんのは賢吾だろーがッ!いいから賢吾を出せっつーんだよォ〜!」

「あのォ〜……こいつ顔コエーけどダチ思いなのはマジなんで、会わせてやってくれませんかねぇ……?」


喧嘩腰の億泰を引っ張って、仗助がへらりと笑ってみせる。今にも突っ込んでいきそうな億泰を二人がかりで宥めていると、くすくす、という微かな笑い声がスピーカー越しに聞こえてきた。


『友達?そう思ってるのって、あなた達だけなんじゃないかしら』

「ンだとォ〜!?」

『だってあの子は、違うって言ってたもの』

「え、」


三人の動きが止まる。うふふ、と勝ち誇ったような声が耳を撫でていく。


『そういう訳だから――もうあの子に近付かないでちょうだいね?』

「ま、待っ――」


ぶつ、と。あっさりと切られてしまった。唖然とする康一と仗助を尻目に、最も騒ぎ出しそうな億泰はじっと玄関を見詰め、やがて踵を返した。


「お、億泰くん……」

「いーのかよォ億泰」


再び三人で歩き出す。億泰は振り返らない。けれど、そっと覗きこんだ彼の顔は、明らかな怒りに染まっていた。


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