■ 20



友人の一人の様子がおかしかろうと、『その日』はやってくる。多感な時期の子供達に絶望を味わわせ、一部の限られた者が栄誉を得る。挽回の機会はあるとはいえ、それまで彼らのヒ
エラルキーが変動することはない。

そう――定期テストである。


試験終了の合図に生徒達は声を上げた。歓声しかり、苦悶の声しかり。この地獄のような数日間から解放された喜びと、答案用紙を埋めるであろう赤いバツ印を予測しての怨嗟かの違いではあるが、共通していることはひとつ。放課後は、とにかく遊ぼう。そういうことだ。

鉛筆を放り出して机に突っ伏していた億泰も例外ではない。もうすぐ退院する兄、形兆の心労を少しでも減らしたくて普段はしないテスト勉強に挑んでみたはいいものの、見事に撃沈。
睡眠時間が増えるだけの結果となり、試験前日に賢吾に泣きついた。いつもつるんでいる中で成績が最も優秀なのが彼だというのもあるし、接しているうちに賢吾の違和感についても何かわかるかもしれないという思惑もあった。


放課後、「あまり遅くまでは無理だぞ」という賢吾と、隣のクラスから引っ張ってきた仗助と康一を伴って教科書を広げる。一番苦手な歴史だ。小難しい漢字やカタカナ、年号の羅列が眠気を誘い早速眠りそうになった億泰の頭を賢吾が叩く。振り抜かれた平手は良い音をたてた。すぱん、と。


「……お前、人に教えてくれと頼み込んできた割にやる気がないんじゃあないか?」

「そ、そんなことねえって!マジやる気バリバリだっつーのよーッ」

「次に寝たら鼻に消しゴム詰めるからな。勿論お前のだ」

「おい億泰……次起きたらお前の鼻の穴、牛みてーになってるかもよ」

「仗助くん止めなよ!賢吾くんはせめて小さい塊にしてあげなよ!」


短く騒がしかったが、楽しかった。今までこうして誰かと勉強するという経験はなかったし、これからもこの学校にいる限りは続くのではないかという期待があった。その為にも、諸々の問題を早く解決しなければならない。
四人での勉強会を終えて、帰路につく。途中で康一と別れ、徒歩組の三人は夕日を背にゆっくりと歩いていた。


「あーあー試験なんてやってらねーよなぁーっ、どうせオレ成績悪いしよォ」

「せめて今日やったところくらいは点数を取れよ、空しくなる」

「が、頑張るけどよぉ……そういや仗助、おめーって成績どうなの?」

「オレ?まあ普通じゃねーの?成績わりーと小遣い減らされちまうんだよなァ……うちのお袋、教師だしよ」

「マジかよォーッ!じゃあアレか、家で教えてもらえたりすんのか」

「頼めば教えてくれるだろーけどなァ……なんか嫌じゃあねーか、そういうの」


へえー、と感心したように頷く億泰。黙ってはいたが賢吾も驚いていた。外見で判断していたが、東方仗助という男は意外と真面目だ。授業態度も悪くないらしいし、成績も同じく。
教師である母親の育て方が良かったのだろうとぼんやりと考える。友人を助けるために労力は惜しまないし、そういえば悪い噂もほとんど聞いたことがない。こうして考えてみれば、自分よりもよほど素晴らしい人間ではないか。

今更、自分がどうなりたいという希望はない。母の敷いたレールの上を進むことに最早疑問はないし、その中でうまく楽が出来ればいい。家の中での母との交流など事務的な、形ばかりの会話くらいのものだ。部屋に篭ること以外に選択肢はなく、その中で出来ることといえば読書か勉強くらいのものだ。成績が良くなったのはただそれだけの理由であり、別に好んでそうなったわけではないのだ。都合は、良かったが。


「そういや賢吾って母ちゃん似?父ちゃん似?オレはオヤジに似てるって兄貴が言ってたんだよなァ、兄貴はお袋似らしいんだけどよォーッ」

「あーオレも親父似だって言われたことあるなー。写真のひとつもねえから自分じゃよくわかんねーけどよ」

「……僕、は」


ぼんやりしている内に、話は『自分が両親のどちらに似たか』に変わったらしい。仗助と億泰は揃って父親似ということたしいが、自分は。







『――あなたって、本当にあの人そっくり。どんどん、近くなるのね』







「……父に、そっくりだと。母は言っていたが」

「マジかよォーッ家の中に賢吾が二人いるみてーな感じってことか!」

「うえーーッ想像したくねーっ!お袋さん大変そーだなぁ〜」


父の姿を、思い出す。思い出そうとする。


顔は、どうだっただろう。自分に似ているらしいが、そうだったか。少なくとも、眉間に皺は寄っていなかった気がする。鮮明に思い出せるのは、いつも来ていた白いワイシャツのぱりっとした感じだとか、翻る上着の袖だとか、時折口の端を持ち上げるようにする、その仕草だとか。そんなものばかりで、全体像が思い出せない。
そういえば、最後に会ったのは何年前だっただろう。意識のうちに『父親』という存在が浮上してきたこと自体がそもそも久し振りで、どういう反応をしたらいいのかわからない。

元はと言えば、母が『ああいう』風になったのは父の不貞が原因だ。あくまでも自分の知る限りではあるが。
家庭があるにも関わらず外に女を作り、妻と子を蔑ろにしたというのは、客観的に見てもよろしくないことだと思う。――では、憎めばいいのだろうか。だが、何に対して怒りを抱けばいいのかわからない。
今の自分が置かれている境遇は、恐らく普通ではない。母は異常だ。だがそれが何だというのだろうか。自分は飢えることも凍えることもなく生きているし、何かを不満に思ったこともない。母の不興を買わないようにする、ということに関しては自分だけが心がけていることではない。彼女の怒り方が、ほんの少し、他人とは違うだけだ。

自分で対処できるのであれば脅威ではない。『リザード・テイル』だっている。決して、『恐怖』などでは、ない。




「辰沼、お前んち、ここ曲がったとこじゃねーの?」

「――あ、ああ」

仗助に声を掛けられて、我に返る。彼の言う通り自分の家はすぐ目の前の角を曲がって少し歩いたところであり、仗助と億泰はもうしばらく直進である。つまり、ここでお別れ。


「賢吾、今日はサンキューな!とりあえず脱補習目指して頑張るからよォー!」

「志が低いんだよてめーはよッ!平均点だろそこは」

「オレが平均点なんて取ったらよーッ、兄貴がまた入院しそうな気がすんだよなー」


ギャハハ、と大口を開けて笑う彼らは「じゃーなァ〜」と手を振って去って行った。それを見送って、角を曲がる。――笑いあいながら遠ざかる彼らを見て、何故だか少し苦しくなった。理由はわからない。また何か思い出すのは嫌だな、とは思った。


「――おっと、すまない」

「あ、……すみません」


俯きながら歩いていたせいか、曲がりきる直前に人とぶつかってしまった。少しよろめいたところを手を掴んで支えられ、「すみません」と頭を下げる。最近、どこかぼんやりしている。気を引き締めなければ、と思い直して顔を上げ、改めて相手の顔を見る。


「何度も、すみません。不注意でした」

「いいや……構わないよ。怪我は、ないかな」

「はい。そちらこそ」

「わたしは大丈夫だ。――それじゃ」


穏やかな男だった。どこにでもいそうな、印象に残りにくそうな。掴まれたままだった手を握手するように一度強く握られたので、再び頭を下げる。そのまま男は去って行った。
なんとなく自分の手を見る。造形は、母に似た。指が細長くてあまり節がない。同年代の男子と比べてしまうとどうしても華奢でしかなく、あまり好きではなかった。

はあ、と溜め息を吐き、もう見えている自宅へ向かう。明日から中間テストだ。日頃から予習と復習を欠かしていないとはいえ、成績の低下は文字通り『生死に関わる』。
賢吾は真っ直ぐ前を向いた。気を、しっかり持たなくては。


「ただいま」

「――おかえりなさい、賢吾」


扉が閉まる。息苦しさは、とうに消えていた。



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