■ 18


――随分と昔の、蒸し暑い夏の夜のことだった。窓という窓を閉め切った部屋の隅で、賢吾は膝を抱えて座っていた。


暑さで頭が朦朧としている。お母さんは暑くないのかな、と首を傾げた拍子に頭がこつんと食器棚にぶつかった。体温よりも少し低い、木の優しい冷たさだ。そのままぺったりと頬を寄せ、目を閉じる。先程まで聞き流していた母と電話の向こうの相手との会話は、いつの間にかループしているようだった。


「……私の何が不満だったっていうの!?仕事も家事も完璧にやってきたじゃない!
私を――この私を、捨てるって言うの!?」


受話器を握りしめて叫ぶ母の顔は、まるでアニメや絵本に出てきた悪いお婆さんのようだった。
いつも綺麗に化粧をして柔らかく笑う母は宇宙人にでも連れ去られてしまったのかな、どうしよう、と半ば本気で考える。

家から少し離れた、カメユーというデパートで母は働いている。指輪やネックレスなどきらきらしたものを売っているのだ。一度学校の帰りに遊びに行ったことがあるが、きらきらしたものに囲まれて笑顔を浮かべて働く母は、子供の自分から見ても綺麗だった。クラスの子達にも自慢した。母を知っている保護者もいて、口々に彼女を褒めた。賢吾の、自慢の母親だった。

今は家にいない父も、また自慢だった。口数は少なく笑うこともあまりなかったが、仕事の帰りによく本を買ってきてくれた。賢吾は色々な動物の写真が載っている「いきもの図鑑」が特にお気に入りで、毎日飽きずに眺めていた。ネクタイをきっちり締めて颯爽と上着を翻して着る仕草に憧れて、真似をしては母に笑われた。


――幸せだった。


母の様子がおかしくなったのは、父が東京に行って数か月経った頃。春先のことだった。
学校から帰宅した賢吾が玄関を開け、「ただいま」を口にしようとした時――何かが割れる音がした。驚きながらも急いで家に入ると、賢吾より早く帰宅していたらしい母が手紙のようなものを凝視しながら立ち尽くしている。彼女の足元で割れているのは、夫婦でお揃いだと言っていたマグカップだ。淡いピンク色のそれはただの陶器の欠片に成り下がり、コーヒーと一緒に床にぶちまけられている。
目を見開いたまま微動だにしない母に、賢吾も戸惑って動くことができない。やがて彼女がゆるりと視線を上げ、賢吾に気付く。いつもならばきらきらと光を反射する目は、黒く淀んだ沼を髣髴とさせた。ごくりと唾を飲みこんだ賢吾を見て、母はゆったりと口の端を持ち上げた。


「――嗚呼、おかえりなさい。なんでもないのよ。さあ、早く手を洗ってうがいをしてらっしゃい。おやつ、買ってきてあるからね」


片付けもしなくっちゃ、と譫言のように呟く母が何だか恐ろしくて、賢吾は急いで部屋に戻ってランドセルを置き、殊更時間をかけて手を洗ってうがいをした。心細さをごまかすために部屋にあった恐竜のぬいぐるみを抱え、足音を忍ばせてリビングに戻るとそこは既に片付いていて、テーブルの上にはケーキが置いてあった。


「お母さん、」

「ごめんね賢吾、びっくりさせて。もう大丈夫よ」


そう言って微笑む母はいつも通り優しくて美しい彼女で、賢吾は安堵の溜め息を吐く。ぬいぐるみを隣の椅子に座らせて、「いただきます」と言ってからケーキを頬張った。


「賢吾は本当にそのぬいぐるみが大好きねえ」

「お父さんが買ってくれたんだよ。ぼく、ずっと大事にする」

「……そう。そうだったわね」


その時の彼女の表情は思い出せない。カップから立ち昇る湯気に邪魔されたかのように、ぼんやりと霞んでしまっている。
――思えば、これが最初だった。



***


小学校生活が始まって数か月。ざあざあと降りしきる雨の中、賢吾は傘を片手に帰路を歩いていた。ランドセルがたてることことという音も、雨音に紛れて聞こえない。長靴で水溜りを蹴飛ばして、紫陽花の花に隠れたカタツムリを探した。新しい生活は毎日が刺激で満ちていて、『楽しい』の連続だった。

もうすぐ夏休みがやってくる。夏休みになったら、母と二人で父に会いに行くのだ。久し振りに家族全員が揃うことになる、と浮かれる賢吾の足取りは軽い。家のカレンダーには終業式の日に花丸が描かれ、毎日バツをつけては残りの日数を数えるのが日課になった。

今日は夜まで仕事があるという母の言葉を思い出しながらの帰宅。濡れたランドセルを拭こうとタオルを取りに洗面所へ向かい、その足で飲み物を取りにキッチンへ入った。冷蔵庫を開けて麦茶を取り出して飲んでいると、ふと調理台に置かれた封筒が目に入った。茶色い事務的な封筒で、賢吾には読めない漢字が沢山並んでいる。
なんとなくひっくり返した時、ひらりと封筒の中から何かが落ちてきた。――写真のようだ。慌ててコップを置いて写真を拾う。


「……あれ?」


そこに写っていたのは、東京にいる筈の父と――彼の腕を取って楽しげに笑う、知らない女性の姿だった。


頭が真っ白になって、とにかく写真を元に戻す。ランドセルを回収して部屋に駆け戻り、ぬいぐるみを抱えてベッドに飛び込んだ。


誰だ。あれは誰なんだ。父は、母と結婚しているんじゃなかったのか。
ぬいぐるみに顔を埋める。青い恐竜のぬいぐるみ。博物館に連れて行ってもらった時、父が買ってくれたのだ。幸せな家族の筈だ。自分達は。
――ならばあれはどういうことなのだろう。ああいうのを、「ふりん」とか「うわき」と言うのではなかったか。もしかして、母は知ってしまったのではないか?

その可能性に行きついて、賢吾はただ悲しかった。ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。ぬいぐるみを手放す。音もなく床に落ちた恐竜の黒い目は、電灯の光を反射して賢吾を見詰めているようにも見えた。


その日の夜、賢吾は初めて仮病を使った。家族全員で遊園地に行く夢を見て、目が覚めた時にまた泣いた。


そして梅雨が明けて、夏休みが始まって。心の隅に疑念を抱きながらも楽しみにしていた上京の日が近付いたある日の夜。



母は、壊れてしまった。



電話の相手は、恐らく父だ。そして、疑いは確信に変わったのだ。これまで二人で培ってきた全てを否定されて、母は怒り、嘆き、悲しんでいる。仕事も、家事も、育児も。まだ若い彼女はその全てに全力を尽くしてきた。父に相応しい妻であるために。
それなのに、父は彼女を裏切った。賢吾のことも。

いつの間にか電話は切られていた。体中の水分がなくなってしまうのではないかという程に涙を流す母は暫く受話器を眺めていたが、ずるずると足を引きずるようにしてキッチンへ向かう。座り込んだままそれを見ていた賢吾の視界に、きらりと光る何かが入ってきた。


どす。


――包丁。

理解した時、既にその先端は賢吾の隣に置かれたぬいぐるみの腹を貫通して床に突き刺さっていた。

茫然とするしかない賢吾の前で、恐竜は腹を裂かれ、中から真っ白な綿を溢れさせている。


「お母さ――」


最後まで口にする前に、母の細い指が首に食い込む。





纏わりつく湿気も、固い床も、気道を絞める指の感触も。


母の涙の、理由も。


――全部、思い出した。



***





「……賢吾?」


承太郎の視線の先で、目を見開いたまま賢吾が固まっている。よく見ると微かに震えているようだった。些か踏み込み過ぎたか、と少し反省する。

仗助と億泰から、賢吾が何かに悩んでいるというのは聞いていた。当たりをつけて、半ばカマをかけるような形で話をしてみたのには説明した通りの理由があるのだ。
彼が悩むとしたら対人関係であるということ、それはごく狭い範囲であること。『自分が無い』という言葉の陰から窺える、彼の家庭の問題。

今の自分と賢吾はまだ出会って間もないただの知人なのだ。話を聞いてやるだけでも、と思って海へ連れて来はしたが、アプローチの仕方を間違えたかもしれない。

立ち尽くす賢吾の肩に手を伸ばした瞬間――承太郎の手は、勢いよく叩き落とされた。


「――……当たり前だろう」

「賢吾、」

「いらないものは、捨てられるんだ。邪魔だから。……そんなの、当たり前のことじゃないか……!」


賢吾の脳裏に、あの夏の夜の出来事が鮮明に映し出される。――そうだ。あの時だ、『スタンド』が発現したのは。


「『イイ子』でいなくちゃ――『完璧』でいなくちゃいけないんだ。何度失敗しても大丈夫なように……神様は、僕に『スタンド』をくれた。
何度でもやり直せるように――母さんの、ために」

「おい、賢吾」


両手を持ち上げて、目を覆う。前髪をぐしゃりと掴む。慣れた暗闇。何か失敗する度に、首を絞められた。恐らく、『リザード・テイル』は『死にたくない』という強い願望から生まれた『スタンド』だ。何度でも繰り返し、彼女の――母の望む存在に近付くチャンスを与えられてきたのだ。独りで生きられない賢吾が、母親に見捨てられないために。『生きる』ために。外見がトカゲ、というのは何の皮肉だろうか。


「……ありがとうございます空条さん。全部思い出した……大丈夫です」


頭痛が酷い。ふらつく足をどうにか動かして、目の前の男に背を向ける。砂浜を進んで行こうとすると、強い力で肩を掴まれ振り向かされる。承太郎の強い視線が賢吾を射抜いた。


「……何ですか?」

「――顔色が悪い。家まで送って行こう」

「いいですよ、別に……。ひとりで帰れます」

「ここまで連れてきたのも、お前の中に踏み込みすぎて嫌な思いをさせたのも俺だ。責任は取る」


ふうん、と適当な相槌をうって、賢吾は肩の手を外す。短い付き合いだが、この男が言い出したら聞かないということは身を以て知っている。抵抗は無駄だろう。
大人しく従うことにして、「じゃあお願いします」と再び歩き出す。ここに来る時に通った駐車場を目指して。



「……チッ」



ざくざくと砂浜を踏みしめる音に紛れて、背後の承太郎の舌打ちが彼の耳に届くことはなかった。



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