■ 17


承太郎が車を停めたのは十数分後、彼が滞在しているというホテルの駐車場でのことだった。杜王グランドホテル。宿泊したことはないが、海の近くに聳える立派なホテルだということは知っている。長期滞在にここを選んだ辺りからして、恐らくそれなりの財力の持ち主であることが窺える。増々胡散臭い。


「ついて来い」


車から降りると、承太郎はコートの裾を翻してホテルに入って行った。少し距離をおいてその背中を追う。真っ白なコートに包まれた広い背中だ。ふと、彼の家族はどんな人間なんだろうかという考えが頭を過った。こんなにも真っ直ぐな視線を持つ男は、さぞ素晴らしい家族に恵まれているのだろうなと思う。

美しく優しい母と、厳しく正しい父。理想の塊から生まれた、星のような存在だったのだろう。両親の良いところだけを受け継いで、きらきらと高みで瞬くような。そういう生き方をしてきたのだろう。

だからあまりにも眩しいのだ。見上げることも億劫なほどの高さで輝くから、地面を這う存在が直視すれば目が焼けてしまう。――自分とは、比べることすら烏滸がましい。賢吾にとっての空条承太郎とは、そういう男だ。

エントランスに入ると、承太郎はフロントで何か話しているようだった。話が終わったのか、今度は長い廊下を歩いて行ってしまう。学生服の賢吾が一人で佇むにはあまりにも場違いな気がして慌てて追いかけた。
幾度か角を曲がって、外に出る。――そこには、白い砂浜が広がっていた。

びゅう、と吹きつけた潮風に小さく声を上げると、承太郎はざくざくと音をたてて進んでいた足を止め、緩やかに振り返る。「海は好きか」と問われて、首を傾げた。


「……別に、好きでも嫌いでもありません」

「海水浴に来たことは?」

「ないです」

「そうか。今の時期だと泳ぐには水温が低すぎるが、数か月すれば海開きになるだろう。じっくり泳いでみるといい」


そう言って海を見る承太郎の眼差しは穏やかだ。普段は人の心の中まで見通すような目をしているのに、今はその厳しさが見受けられない。海が好き、というのをとても強く主張していた。

承太郎は再び砂浜を進み始めた。日差しが彼を照らし、白い砂の上に黒い影を伸ばす。こうして誰かの背中を追って歩くのも、随分と久し振りな気がする。革靴が砂に沈む感覚、頬を撫でる潮風の匂い。――何故だか、無性に胸が苦しくなった。


「お前は何を『恐れて』いる?」


立ち止まった承太郎が海から視線を離さずに賢吾に尋ねる。恐れる、という言葉に眉根が寄った。まるで子供扱いだ。未成年とはいえ、男子高校生である。そうそう怖いものなど人に言いたくはないのが正直なところであり、ましてや守られるというのは賢吾自身のプライドが許さなかった。承太郎や仗助、億泰と比べれば小柄ではあるが、それなりに背丈もある。
『スタンド』だって使えるのだから、恐れるものなどほとんどない、筈だ。
返答に窮していると、承太郎は賢吾に向き直った。真っ直ぐな緑色の瞳。見詰められると、ひどく居心地が悪い。


「……何も、怖くなんてないですよ。一体何なんです?質問の意味がわからない」

「分かりやすい嘘は吐くもんじゃねえぜ。足元がぐらついて不安で堪らない、って顔をしている」

「別に、僕は、」

「賢吾」


咎めるように名前を呼ばれる。嘘も言い訳も通用しないのだと突きつけられているような気がした。事実、その通りなのだろう。だが、まだ出会って大して経ってもいない男に心の内の何もかもを話してしまうということは憚られる。
諦めの溜め息を吐いて、少しだけ話してみることにした。元々悩みを解決するためにわざわざついてきたのだから、今のこの状況を利用しなければ損である。


「――僕には、『自分』が無いと。そう、思っただけです」


『自分』を構成するものに、他ならない『自分自身』の意思が反映されているものがほとんど無いのだ。

母に指定された髪型を保ち、校則通りに制服を着て、母と教師に求められるまま優等生を演じる。日常において感情の起伏が少なく、怒りは覚えても楽しいと思うことはほとんどない。
仗助達と交流を持ち始めてから浮き彫りになり始めたその事実が気になって仕方がないのだ。


「例えばの話だが」


そう前置きして、承太郎は徐に海へと近付く。屈んで何かしていたかと思えば、その手にはヒトデが摘ままれている。


「俺は海洋学者をやっている。理由は海が好きだからで、海の生物にも興味がある。だが仕事に選ぶほどの興味がお前位の歳の時にあったかといえば、そんなことはなかった」

「……だから?」

「お前の歳で『自分』が何だって決めちまうには、少しばかり早いんじゃあねえか。この先いくらでも考えは変わるし、選択肢もある」

「答えになってません。未来のことよりも目の前のこの事実が重要なんだ」

「デカルトは習ったか」

「『我思う、ゆえに我あり』ですか」

「そうだ。お前が、その『自分が無い』という考えを持っていること自体がお前という証明になる。違うか?」

「……そんなの。詭弁じゃないですか」


やっぱり話すんじゃなかった。そんな後悔が胸に満ちる。
迷いなど一切なさそうなこの男に相談した自分が馬鹿だったのだと唇を噛む。形だけで中身のない存在に意味などない。やはりこんな迷いは早々に捨ててしまおう、と目を伏せた。
これまで通り、母の理想の形を維持するだけでいい。それが最も楽で、確実だ。

結論が出たならばこんなところにいる必要もないと踵を返しかけたとき、低く、厚みのある声が波の音を縫って耳に届いた。


「賢吾」

「……まだ何か?」


数歩離れたところで振り返ると、承太郎は遠くを見つめていた。水平線でも眺めているのか、とその視線の先を辿ってみれば、ただ青く広がる海があるだけで目につくようなものは見当たらない。しかし、彼にはそこに何か重要なものが見えているかのような空気を醸し出している。


「恐れる必要はない。誰もお前を拒絶しない」




――ガツン、と頭を殴られたような気がした。


拒絶される。自分が。
どうして母に言われるがまま生きてきた?彼女の怒りが自分に向くのが嫌だったから?何故だ。


どうして。どうして。

すっと目の前が暗くなる。意識が埋没する。記憶の中へ。――そうだ、切欠があった。

あの夏の夜。纏わりつくような湿気。背中に感じる固い床。首に食い込む指の感触。狭まる視界と、頬に落ちてくる生温い液体。上擦った声。



『うそよ』

『うそ、こんなのうそよ』

『あの人の言う通りにしたのに、わたし、がんばったのに』

『そうでしょう?賢吾もそう思うわよね?』

『嫌よ』

『わたしを捨てるなんて許さないわ』

『完璧になるのよ、賢吾』

『私達は完璧になるの』

『優れた人間になりなさい』

『劣った人間はいらないの』

『大丈夫よ。おかあさんが、おしえてあげるからね』






「――ぼく、は、」




『いらないものは、捨てちゃおうね』



腹を割かれたぬいぐるみが、真っ黒な目で僕を見ている。






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