■ 10

翌日。賢吾は、右手に包帯を巻いているという以外はいつも通りの姿で登校した。一晩様子を見てみたものの腫れは完全には引かず、未だに鈍い熱と痛みを発している。薬を塗り、ガーゼと包帯で覆っておかなければ些細な刺激で激痛を引き起こすことは明らかだった。

利き手の動きを制限されるというのはひどくもどかしいもので、いつもなら難なく行うことのできる動作にもたついてしまう。朝からそんなことの連続だったため、彼の眉間の皺は名刺でも挟めそうなほど深くなってしまっている。どこからどう見ても、機嫌は最悪であった。

基本的に、教室で彼に話しかける生徒というのは少ない。事務的な会話であれば誠実に答えてくれるが、それ以外の会話というものをする気がないのが明白だからだ。雑談を持ちかけて心底嫌そうな顔をされて喜ぶ物好きというのはなかなか存在しない。


――しかし、いたのだ。物好きが。


朝のHRがそろそろ始まるという時間になって、廊下から騒がしい複数の足音が聞こえてくる。またどこぞの不良が騒がしい、と賢吾が更に眉間の皺を深くしていると、なんと足音は彼がいる教室に飛び込んできたではないか。

静かにしていることも出来ないのか、と溜め息を吐き、視界に入れたくもないと前を向く。広げられているのは一時間目の数学の教科書だ。ずらりと並んだ数式を眺め、頭の中で前日の授業の内容を思い出していると――。


「あッ!オイ賢吾〜!」


……気のせいだろうか。家以外ではほとんど呼ばれたことのない自分の名前が呼ばれたような。

恐らく空耳だろう。昨日は色々あった。疲れが残っているせいで、こんな不快な空耳などするのだ。やはり休息は大切だ。それ以上に『日常』は大切だ。


「オイ無視すんなってェ!おめーだよ委員長!」


瞬間、数式が消えた。目の前に立つ何者かが、読んでいた教科書を取り上げてしまったのだと気付いた時には、既に賢吾は顔を上げてしまっていた。即ち、視界に入れてしまったのだ。
満面の笑みを浮かべている『不良』――虹村億泰と、その後ろで苦虫を噛み潰したような顔をする、東方仗助を。


「うわ……すンげぇ顔してやがる」

「なあ賢吾、昨日はマジでサンキューなッ!おめーのお陰で兄貴が助かったんだよォ〜、オレどうしても礼がしたくってよぉ!」

「億泰、ちょっと落ち着けって……委員長の顔すげえことになってッからよぉ……」

「えッ?うわ何だよそれ、腹でも痛ェのか?アイスの食いすぎとか?オレも去年腹壊してさァー」


だはは、と能天気に笑う億泰だが、仗助は気が気でない。何せ目の前の委員長こと辰沼賢吾から立ち昇るオーラがやばい。『ゴゴゴゴゴ』とか、そういう感じの効果音がつきそうである。億泰はどうして笑っていられるんだろう、と不思議で仕方なかった。


「あー……辰沼、とにかく話があっからよォ、ちょいとツラ貸してくんねえかな。放課後でいいからよォ」

「オレ何か奢るからさァー!仗助ェ、どっかうまいモン食える店知ってっか?」


咄嗟に言われて思いつくのは、やはり『カフェ・ドゥ・マゴ』だろうか。自分もよく利用するが、飲み物も食べ物も美味しい。学校からの距離もそう遠くないし、うってつけではないだろうか。そういえば最近暑くなってきたことだし、何か冷たいデザートでも食べに行きたい。思考が現実を見ずに脇道へ逸れていく。そしてすっかり忘れてしまった。『自分達が今、何をしていたのか』。


「…………――ろ」

「ん?」

「お?」

「いい加減にしろこのノータリン共がッ!!」


すぱん、と軽快な音が教室中に響き渡った。それまでハラハラと成り行きを見守っていた生徒達が一様に首を竦める。その視線の先には、誰がどう見ても怒り心頭な賢吾と頭を押さえて目を見開く億泰、一歩引いて顔を引き攣らせている仗助がいた。

賢吾の手にはいつの間にか取り返したらしい数学の教科書が握られている。どうやらあれで億泰の頭をひっ叩いたようだ。もし教科書を取り上げていたのが仗助だったら今頃大変なことになっていたのだが、幸運なことに億泰であった。


「いいかッ!僕にはお前達のために割いてやる時間なんて一秒たりともないんだ!わかるか?その空っぽの頭で理解できるか?
『昨日のこと』が何だか知らないが、僕はお前達と関わりたくないし関わらせるつもりもないッ!

特に虹村、恩を感じるのは勝手だが、礼がしたいんなら放っておいてくれないか!」


一方的に言い放つと、まるで何事もなかったかのように席に着いてそのまま教科書を読み始める。教室全体が静まり返り、微妙な空気が漂う。
あまりにも身勝手な言い分だ。億泰はぽかんと目と口を開けたまま固まっている。ならば自分が言い返してやらねば、と仗助が口を開こうとした瞬間、始業の鐘が鳴った。


「おい辰沼……てめーを『ある人』に会わせなきゃならねえ。放課後、時間空けとけよ」



担任の教師が入ってくる直前、すれ違いざまにそう囁く。賢吾は、視線すら寄越さなかった。




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