■ 8

さて、一息ついたところで未だに制服のままだったことを思い出し、賢吾は急いで部屋着に着替え、汚れてしまった制服を出来る限り綺麗にした。今日起きた出来事が出来事とはいえ、明日はいつも通りやってくるのだ。ならば、自分はいつも通り『完璧な優等生』であらねばならない。

制服をハンガーに掛け、勉強机に教科書とノートを広げる。予習と復習は成績維持に欠かせない。毎日こなしていることなので、苦には思わない。とはいえ、色々あって疲れた身体には少々辛いのも確かだった。
眼鏡を一旦外して、眠気を払うように目を擦る。改めて眼鏡をかけ直したところで、階下から物音が聞こえてきた。
一瞬にして、身体が強張る。鉛筆を持ち、背筋を伸ばして数学の問題を解き始めた。手を動かし、鉛筆の芯が紙を擦る音に加えて、足音が段々近付いてくる。動悸が激しくなり、呼吸が荒くなるのを必死で堪えた。――そして遂に、足音が部屋の前で止まる。


「賢吾、入るわね」


とんとんとん、という軽いノックと共に、返事をする前にドアが開いた。必死に平静を装ってそちらを見ると、長く波打つ黒髪を揺らして、美しい女性が部屋に入ってくるところだった。賢吾の、母親だ。


「……お帰りなさい」


声は震えていなかっただろうか。視線の先で、母親は穏やかな笑みを浮かべて「ただいま」と返してくる。シミ一つない白い肌。少し垂れ気味な目は、それだけで印象を和らげる。外見において、賢吾は彼女の要素をほとんど受け継がなかった。唯一似ていると言えば、手の形くらいだろうか。とはいえ、華奢な手というのは男子にとって、持っていて嬉しいものではない。女性的なパーツばかりを寄せ集めたかのような母に似ることはなかったが、冷たい印象の強い父に似てしまったことは喜ぶべきか悲しむべきなのか判断がつけ辛いところだった。


「今日も先生方のお手伝いをしてきたの?」

「……うん、まあ」

「そう……賢吾はいい子ね、お母さんの自慢だわ」

母親が笑みを深くする。『花が咲くように』とはこういうのを指すんだろうな、と賢吾はぼんやりと考えた。親子であるという贔屓目を除いても、彼女は美しい。職場でも、左手の薬指に嵌められた指輪を知りながらアプローチしてくる男性が多いと以前言っていた。無理もない。


「――その手はどうしたの?」

「え、…………あ、その」


しまった、と思った次の瞬間には、頭の中が真っ白になっていた。彼女が部屋に入ってきた時、鉛筆を置いて右手をそっと隠せばよかったのだがもう遅い。右手に巻かれた包帯に気付かれてしまった。言葉に詰まっている内に、母親はゆっくりと近付いてくる。座ったまま身動きできずにいると、勢いよく右手首を掴みあげられた。痛みに呻くが、彼女は相変わらず笑みを浮かべている。よくよく見てみれば、目がまったく笑っていない。先程から、ずっと。


「ねえ、どうしたの?学校からお家まで、真っ直ぐ帰ってきたのよね?そういう約束だものね?どうして怪我してるの?お母さんとの約束破ったの?そうなの?お父さんみたいに?貴方もお父さんみたいに私を裏切るの?」

「ち、違うッ!そんなことはしてないッ!」

「じゃあこの手はどうしたの?学校で怪我したなら電話があるはずよね?お母さん、帰ってきてすぐに留守電をチェックしたけれど、何もなかったわ。
……やっぱり嘘吐いたのね」


右手を掴んでいた白魚のような手が、賢吾の首を絞めつける。細い指が気道に食い込み呼吸を妨げた。ぐ、と潰れた蛙のような無様な声が喉を震わせたが、彼女は依然微笑んだままだ。その手を引き剥がそうにも、それなりの力を込めてかからねばならない。そうなれば、母の手に傷がついてしまう可能性が高く、賢吾には出来なかった。

母親想いなのではない。彼女は、自分の容姿にかなりの自信を持っている。そしてそれを維持し、更に高めることに余念がない。より美しく、より完璧に。家事も仕事もそつなくこなし、人当たりも良い素晴らしい女性――周囲からは、そう思われている。そう、思われていなければならないのだと言う。
賢吾から言えば、母は度を過ぎた完璧主義者だ。『自分が完璧である』ためには何でもする。息子である自分はその道具でしかない。

それが不幸だとは思わない。実際、彼女は素晴らしい母親だと思うのだ。父親が不在の間は家を守り、家事も仕事も疎かにしたことはないのだから。『嘘を吐かれるのをひどく嫌う』ことや『自分の指示に従わないと逆上する』といった点はあるが、誰にでも欠点は存在する。完璧であろうとする母の、数少ない人間味の表れなのだ。

――楽なのだ。彼女の言う通り、『完璧な優等生』を演じるというのは。

何せ、考えなくていい。成績で上位を保ち、教員に良い顔をしていれば評価は上がる。生徒達からの評判がどうなろうと知ったことではない。つまり、互いの利益が一致しているのだ。
結局自分が一番可愛いし、大切だ。この家族は皆そうだ、と少し可笑しくなった。


なにか、弁解をしなくては。


そうは思うものの、苦しくて視界が白くなってくる。こうして首を絞められるのにも、もう慣れてしまった。かと言って恐怖が消えるわけでもない。


「(――ああ、これだから不良に関わるのは嫌なんだ)」


あの特徴的な髪型の男――東方仗助に心の中で舌打ちしつつ、ぼやけた頭で必死に言い訳を考えた。



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