夢幻の春

「ねえ、僕は春が嫌いなんだ」
酷く暗鬱な調子でクダリは言った。まるでそれはもうこの台詞を口にするのに飽いてしまったような、そんな様子であった。

「なんでまた急にそんなことを言い出すんだい?はるは眠りそうに冷たい冬よりもよっぽど優しくてボクは好きなんだけどなァ」
エメットは笑う。彼にはクダリのその暗い様子がとても面白いものに見えたようだった。
気温ももう随分と上がり、朝夕の冷え込みはまだあるけれど、柔らかくあたたかな日差しを寄越す世界のそれはもう立派に春のそれであった。けれどそのあたたかさは日の差さない地下にはあまり関係のない話で。

管理された無機質な温かさの乾いた風を浴びながら、クダリは仏頂面で口を開いた。彼のトレードマークである笑顔はどこぞかに家出でもしてしまったようであった。

「正直なところ眠い眠くないはあんまり変わりがないんだ。冬は寒くて眠たいし春はあたたかくて眠い。ていうか基本年中僕は眠い。布団と結婚したいくらい」
「いやまあね。分かるけどね。でもそれを言ったら何もかも剥き出しで美しくないじゃない。春眠暁を覚えず大いに結構。でも春はやっぱり目覚めの季節で、眠る冬や苛烈な夏よりかはよっぽど万人受けすると思うよ」
エメットはやっぱり笑って言う。それは或いはクダリの分の笑みを引き受けたようですらあった。


二人の前に横たえられたローテーブルに置かれた菓子鉢からどちらともなくカラフルは包装紙で着飾ったチョコレートを摘み出す。可愛らしいチョコレートたちは手の平の上で弄ばれてもまだまだ形を崩すことなく、乱れた銀紙からとろけそうに甘いにおいをさせていた。
そっと一つ目のチョコレートをエメットが口に入れた頃にはもうクダリは三つ目の銀紙を剥がしにかかっていた。がりがりと音を立ててチョコレートを蹂躙していくその様は或いは小さな子供の様で。ちょっとむくれ気味の彼が可愛らしくて、そうして愛おしくて、エメットはまた少し笑った。


「あのね、春はどこかに連れて行かれそうになるから嫌いなの」
徐にクダリはそう言った。自分が沈黙を破ったのが悔しかったのか、無残に剥かれた銀紙を恨めしげに睨み付けた。
「春は心が身体を置いてどこかに行ってしまいそうになるの。夢か現実かの境目を忘れて、眠ったまま起きれなくなってしまいそうで怖いんだ」

夢を見ているような、そうして酷く冷めたような不思議に不安げな色をした目でクダリはポツリと語った。
平衡感覚を疑うような漠然とした、それこそ夢物語のような恐怖ではあるそれはけれど、確かな実感を伴ってエメットに投げて寄越された。

確かに見えた。半透明で頼りないけれどクダリの背中にぱたりと小さくひらめいたそれ。
まだ濡れていて簡単に駄目になってしまいそうなそれは、きっと蝶々の翅。

「胡蝶の夢、ネ」
薄ら寒い話であった。夢ごときに可愛らしい彼を連れて行かせて堪るか。エメットの口は笑みを描いたまま苦く歪んだ。

「僕それ知ってる。周の夢にて胡蝶となれるか、胡蝶の夢にて周となれるかってやつ。昔はそんなことあって堪るかって思ってたけど今は妙に納得出来ちゃうなあ」
クスクス。クダリはようやく笑った。

ああ笑っているあの子はきっと、ここではないどこかの夢を見ているんだ。エメットはそっと思う。あの翅に触れて駄目にしてしまうことが出来たなら。空を飛ぶ夢なんてぐちゃぐちゃに壊してしまえたら。なんて。

「もしもクダリが蝶々になってしまったら、きっとボクは羽化の時に翅に触ってもう飛べなくしちゃうんだろうなァ。そうして脚を全部千切ってしまって砂糖水で飼うンだ。死んでしまったら標本にしてずっと鍵のついた引き出しにしまっておくの」
「なにそれ。エメットサイテー。僕にも嫌がる権利ある」
「ボクに飼われるの嫌かい?ホラ、死んでも愛してあげるよ?」
「エメット重いよ。いやまあ嫌ではないけどね」
クツクツ。クスリクスリ。
そうして二人で笑う。きっとどんな結果になってもそれはとても幸せなことに違いない。自分とお揃いの笑みを浮かべた彼がいれば例えばそこが虫かごの中であっても。


春は目覚めとあたたかさと、そうしてちょっとした熱病を連れてくる。
眠る冬よりも苛烈な夏よりも沈む秋よりもきっと何より、夢幻に近い。




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