海月と白昼夢

鏡のある密室でのお話



雨が降っていた気がする。ザラザラと大きな音を立てて窓ガラスを叩いていた。エメットはゆるりと目を細めて一つ、息を吐いた。
そういえばこの部屋の何処かに青い蝶々はいなかったかしら。
鉛を溶かした様に重たい足を引き摺って、左手の薬指に違和感を連れて、彼は無機質な部屋に鮮烈な青を探しに出た。


果たしてそれは大きな姿見のある白い部屋にいた。
寒々しいまでに潔癖な白い虫カゴと蝶々。 どこかの絵本で読んだことがあったような、なかったような。
しかしエメットが蝶々だと思っていたそれは左手の薬指に結ばれた青いリボンの蝶々結びだった。

指の主はこれまた病的なまでに真っ白な男だった。
汚れ一つない白い服に血の気の失せた白い肌。唯一髪だけは鈍く銀に光る灰色をしていた。
ああそういえばあれは彼の指輪だったか。
ふとエメットは思い出す。
他にも何か大切な事を物を忘れている気がする。はて一体何だったか。
結局思考は堂々巡りをして、エメットは何処か諦めを携えて口を開いた。

「やあクダリ。今日もいい朝だね」
エメットは朝かどうかなんて知らない。しかし朝ならば良いなとは思っていた。

「何を寝呆けた事を言っているのエメット。朝はまだ遠いよ。」
ゆらり。首をこちらに傾げる様に真白い男、クダリはエメットの方を向いた。

「まだ朝ではないのかい?」
「さあ。なんとなくそう思ったんだ。しかし僕が知るはずないじゃあないか。だってここには窓がないもの」
「窓がないだって?じゃあ雨が降っているというのは夢なのかしら。確かに雨が窓を叩く音がしたよ」
「だから僕が知るはずないだろう。だってここには窓がないんだもの」

二人の色の違う目が見つめ合った。エメットが青でクダリが銀。目のそれと髪の色を除けば二人はそれはよく似ていた。
例えばそれは鏡に結ばれた像の様に。

どちらともなく笑い出す。クツクツ。クスリクスリ。軽やかに踊るその音はけれど、何故か空虚さと共にステップをしていた。

「あのね、エメット」
先に笑いを止めたのはクダリだった。

「どうして起きていないの。青い蝶々も赤い蝶々ももういないんだよ」
ひどく静かな語調だった。笑みの形に弧を描く口元と冴え冴えとした温度ない銀の目。
お月様を飴玉にした様だとエメットは思った。

「ご覧よ」
クダリはエメットに左手を差し出した。その薬指には青い蝶々はいなかった。

「ほら。君の赤い蝶々もいない」
エメットの薬指に赤い蝶々はない。番いの蝶々はどちらもはじめからいなかったかの様に消え失せていた。

「なんて事だ。蝶々なんてはじめからいなかったのか」
愕然とした表情でエメットが言う。

「違うよ。いたさ。死んでしまったんだ」
クダリが寂しそうに返した。

「あのねエメット。よくない事を教えてあげる」
罪を告白する聖人の様に優しく笑んでクダリは言う。

「かぐや姫の残した薬に不死性はないんだよ。ロミオが飲んだのは眠り薬じゃあないんだよ。シンデレラが殺したのは継母じゃあないんだよ。ラプンツェルは潔癖な乙女じゃあないんだよ。いくら窓を無くしたって人魚姫は泡になってしまうんだよ。僕は君を愛していたよ」
ぱしゃり。水の崩れる音。
青い蝶々を一匹残してクダリはもうそこからいなくなっていた。

ああ、そういえば彼はもう終わってしまっていたのか。エメットは思う。
クダリの心臓を蝕んだそれの名も彼の飲んだ毒の名もエメットは知らない。
エメットに手渡されたのはがらんどうな心と消えた人魚姫の行方だった。

窓がなくても朝は彼らを追いかけて。蓋のない虫カゴから番いの蝶々は逃げ出した。
何の事は無い。彼の人魚姫は朝を待たずに泡になったというそれだけ、それだけ。


ドアをノックする様な気軽さで、エメットは姿見を叩き割った。ひどく自然で容赦のない動き。
手の皮が避けてバタバタと血が噴き出す。
けれどそんな事は気にせずに割れた鏡の破片をそっとグラスに入れて、エメットはそれに甘い甘い果実酒を注いだ。
そうしてグラスに口をつけた。


青い蝶々はもう飛ばない。



鏡のあった密室でのもう終わったお話




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