こぼれたミルクの行方

キシキシと甲高い金属の悲鳴と重たい引き摺る音を響かせて玄関の扉が開かれた。

ああよそ行きのにおいがする。よくないにおいだ。これはあの子の心に手ひどく噛み付いて治らない傷を寄越すもの。
 僕はそっと耳を押さえて目を閉じた。
 見ないように。聞かないように。そうして見せないように。
進化をして濃い色になった夜に溶けるような体毛はけれど、あの子から僕を隠してはくれないわけで。

「ただ今帰りましたよ、ニャオニクス」

 軽々と僕を抱えるようになった大きな体と随分と低くなってしまった声、もう外を走り回ることは出来ないようなパシリとした格好いいお洋服に、張り付いて剥がれなくなってしまったよそ行きのにおい。そして昔のままの不器用に歪めた笑顔。

『おかえり、×××』

 聞こえない声でお返事を一つ。僕はまだ笑えているかしら。


 昔昔と言ってもそこまで極端に昔なわけでもない。僕が×××に初めて会った時には既に×××は両手で年を数えなければいけない年齢で、僕はまだニャスパーでこそあったけれど生まれたばかりの幼生というわけでなく、越冬は二度していた。だから、僕たちは双方ともそこまで幼かったわけではなかった。それだけは断固として主張しておく。

 ×××より僕の方が大人になるのはきっと早かった。僕が進化をした時×××はまだティーンで、体の大きさこそ今と大して変わらなかったけれど、今よりずぅっと、そう。きれいだった。何でとも、何がともいえないけれど、ちょっとした空気の揺らぎ一つで消えてしまいそうな希薄さと、そうしてピンと背筋を伸ばして堂々と主張をする若竹のしなやかさでもって、とてもとても、月並みな表現になってしまうけれど、美しい少年だった。

 美しさはいつだって売り物にされる。本人が売ることもあれば他人が売ることもある。×××の美しさは他人に切り売りされた。

目、目、目。いつだって×××には目がつきまとう。目はやがては鼻や耳、手を伴い人の形になる。必要とされるのは姿だけだったはずなのに、いつの間にか世相様は×××に物言いや心根、においまで要求するようになった。

草むらに入ってズボンの裾や靴をどろどろにして、晩御飯のおかずで一喜一憂して、ソファにもたれてだらだらとテレビを見て。そんなどこのでもいたようなそれでもとても素敵だった×××はどこかに行ってしまって、代わりにやってきたのは誰の目から見ても素敵で、どこにもいないようで、そしてありふれてしまった×××だった。×××はそれを大人になることだと言って、きっと僕にはこうなるなと言った。まるでそれは僕を子供のように扱う言葉だったけれど、きっと×××が自分に言ったことなんだろうなと思った。


 ×××は僕に大人になるなと言ったけれど、僕は大人になりたかった。


「ニャオニクス。あのね。どうかあなたはいつまでも子供のままでいてくださいね。わたくしはもう戻れませんから。どうかどうか」

 ねえ×××。僕は君と一緒の大人になりたいんだよ。




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