排他的世界論
「ダークライ、あのね。あたしね、今日もとても素敵な夢を見たの」
頬を赤らめて×××は嬉しそうに私に言った。
『今日は一体どんな夢を見たんだ?』
聞いてやると、×××は至極楽しそうに今日の夢の内容を私に話して聞かせた。
今日は何か恐ろしいものに追いかけられる夢を見たと。
一体それがどんなものかは分からなかったが、とてもとても恐ろしいものだったと。
×××はそれから一生懸命走って逃げたと。
息切れも動機も酷くて、脚もとても痛くて一歩も歩きたくなかったが、それでも逃げ続けたと。
その何かよく分からない恐ろしいものに捕まりそうになった時に目が覚めたと。
およそ普通の人間は喜ばないような悪夢を、×××は喜ぶ。
昨日は親に叩かれる夢。その前は夕食に×××が嫌いなものしかない夢。その前は沢山の人から面と向かって悪口を言われる夢。
そんな夢でも×××はこうやって嬉しそうに私に語るのだ。
どうしてそんな悪夢を喜ぶのか。勿論理由はある。
×××の脚はもう動かないのだ。
走ることはおろか、歩くこと、果ては立つことすらも出来なくなってしまっている。何かの病気でそうなってしまったらしい。
その上×××の家族は脚の動かなくなった×××を存在しなかったことにした。世間体という奴のせいだ。家の中の誰も彼もが×××をいないものとして扱う。まるで×××を空気にでもしてしまったようだった。
だから×××は、よく分からないものに追いかけられる夢を自分の足でまた立って走る事が出来た夢だと喜ぶ。
親に叩かれた夢は自分が空気なんかじゃないと教えてくれる夢。夕食に嫌いなものしかない夢はまだ×××が嫌いなものを覚えていてくれている夢。沢山の人から悪口を言われる夢は皆が×××の事を忘れていない夢。
今私の目の前でニコニコと笑っている×××は、こうやって緩やかに壊れていったのだろう。
なんて、非情。
過剰に恐れられることと、存在そのものを忘れられてしまうこと。果たしてどちらが正しいものか。
彼女ならまず間違いなく恐れられる方がよいと言うのだろう。私はいっそ、忘れられてしまいたかった。
言っていること自体は違っても、我々の根底は一緒なのだろう。愛されたい大切にされたい邪険になんてされたくない。
舐めあう傷が一体どれだったかすら分からなくなってしまったけれど、それでも傷を負った仲間がそばにいてくれたなら、それも幸せなのだろうか。
もし何も傷つけるものがいなかったなら或いは。
君を攫って遠く遠くへ。行ってしまえば果たしてそれは。
『なあ×××』
「なあに。ダークライ」
『このまま一緒に、どこかに逃げてしまわないか』
見開かれた目。答えはいかに。
もう悪い夢は見ない。