番外編 二人のいる夏休み*「暑い…」 長い黒髪の男が、自らをうちわで扇ぎながら唸った。 外は真っ暗で、だいぶ気温は下がっている。 それでも暑いと唸るのは、彼がもともとイギリスの人間だからだろう。 イギリスには熱帯夜がないのかもしれない。 「クロ、エアコンつける?」 悠莉はこの黒髪の男――シリウス・ブラックをどう呼ぼうか決めかねて、結局クロと呼ぶことにした。 シリウスと呼ぶのは少し馴れ馴れしいかもしれないし、ミスター・ブラック――ブラックさんと呼ぶのはかなり他人行儀な気がする。 結局、悠莉は一年近く犬の姿で付き合ってきたシリウスにクロと呼びかけることにした。 「おっと、よしてくれ。俺はその得体の知れない箱から出てくる風、苦手だ」 シリウスはぱっとエアコンを見て忌々しげに言った。 イギリスとは違い湿度の高い、不快感すらある日本の夏を彼が乗り切るには冷房をつけるのがいいかと思ったが、シリウスはどうやら冷房の冷気が好きではないようだ。 「そう?まあ、マグルにもそういう人はいるから」 なおもうちわで自らを扇ぎ続けるシリウスに、悠莉は苦笑いした。 そして妙案を思い付く。 「じゃあわたし、髪の毛切ってあげる。ね?」 彼の、アズカバンにいた十二年間で随分伸びきった黒髪が、不快な暑さに拍車をかけている気がする。 たが、悠莉の提案にシリウスは渋い顔をした。 「ユーリ、心遣いはありがたいんだが、」 「シリウスは長いほうが好きなんだよ。シリウスの髪は卒業する頃には男にしては長いくらいだった」 時差の関係で夕方から夜半にかけてイギリスに出勤する母親は、今日も娘を自分の後輩二人と日本に残していくことにぐちぐち言いながらも、悠莉に散々宥められて渋々姿くらましした。 悠莉の隣で長い足を投げ出して座り、扇風機からの送風を一人占めしていたリーマスがシリウスをからかうように笑っている。 リーマスは冷房に特段こだわりなく昨年の夏を過ごしたので、エアコンをつけることを止めたシリウスに対するよくない感情があるのかもしれない。 「…長い方がこけた頬が見えなくていいんだ」 シリウスは長髪を指でもてあそびながらリーマスをじろりと睨んだ。 リーマスが言うには、シリウスは美形としてホグワーツ在学中有名だったらしい。 そんな自分の容貌がアズカバンで過ごした十二年間でだいぶ失われてしまったことにシリウスはシリウスなりに落胆があるのかもしれない。 それでも、日本にポートキーでやってきてから十日余り。 母親やリーマスの作った美味しい料理をたらふく食らい、毎晩風呂に入り清潔な布団で寝起きするようになったシリウスはだいぶまとも――というか、かなりふっくらしてきて、叫びの屋敷で対峙したあの骸骨のような男とは別人のようになっていた。 「そうかぁ。あ、だったら!」 悠莉は今度こそ妙案を思い付き、にっこり笑って立ち上がった。 * 「クロ、可愛い!」 悠莉がにこにこ言うと、シリウスは目に見えてげんなりした。 彼の長い黒髪は、悠莉によって後頭部の高い位置で一つに結わえられた。 俗に言うポニーテールだ。 サイドの髪は垂れたままなのでこけた頬は気にならないし、後ろ髪を結いあげたおかげで首すじにうざったく髪が絡むこともない。 「ユーリ、教えといてやろう」 シリウスはかすかに眉根を寄せた。 「若い男に可愛いは禁句だぞ」 「シリウスは若くないから大丈夫だね?」 すぐさま言ったリーマスに、シリウスは口をぱくぱくさせたあと唸った。 「俺はお前と同い年ってことを忘れるな」 からかいまじりのにこにこ顔のリーマスと、それを不愉快そうに見るシリウスの間に座って、悠莉は首を傾げて苦笑いする。 「うーん、気をつけるね?」 その子どもっぽい可愛らしい仕草に、シリウスが感心したように目を細めた。 「ユーリ、学校でモテるだろう」 「モテっ、ないよ!からかわないで!」 「本当だよ、この子をからかうんじゃない。ユーリはまだそういうのは知らなくていいんだ」 「親父気取りか?」 苦言を呈したリーマスを今度はシリウスがからかった。 「シリウスはさ、ユーリに丸々一年近く餌をもらってたわけだろう?それで忠誠心みたいなものが湧いたんじゃないか?飼い犬が飼い主に抱くような」 「性格悪くなったな、リーマス…」 「そう?」 反撃したリーマスにシリウスが唸る。 悠莉はやはりその間で苦笑いするしかない。 「まあ、一理あるな。犬に変身してるときは、ユーリから本当にいい匂いがするんだ」 「「えっ」」 シリウスの衝撃的な発言に、悠莉とリーマスは揃って声を上げた。 自分の発言におかしなところがないと思っているシリウスは、驚く二人を見て怪訝に眉をひそめる。 「なんだよ」 「ねえ、クロ。…それって、食べ物的な匂いじゃないよね…?鶏肉みたいな…?」 「大丈夫!取って食いやしねえよ!」 悠莉が心配したことをシリウスは笑い飛ばした。 どうやら餌的な、捕食本能をくすぐる匂いがするわけではないらしい。 自分の生き物に好かれる体質がそういう種類のものだとは悠莉は思っていなかった。 今まで近付いてきてくれた生き物が、本当は悠莉を餌だと思って近付いてきていたとしたら怖すぎる。 そうではないと知って安堵する悠莉は、突然腕をひかれて驚いた。 リーマスがなにやら深刻な顔をしている。 「ユーリ、ちょっとシリウスから離れよう」 「人を異常性癖保持者扱いするのはやめろ!腐っても十代に食指は動かん!」 大人たち二人がなにを言い合っているのか、悠莉にはまるでわからない。 頭上に疑問符を掲げながらも、悠莉はなぜかギスギスしたこの空気をどうにかしようと頭を働かせる。 「ねぇ、クロ。髪の毛のお手入れしてもいい?」 シリウスの伸ばしっぱなしの長髪は大層痛んでいる。 「枝毛切ってあげる」 「あー、その。ユーリ、人型のときはぜひシリウスと呼んで欲しいんだが」 シリウスは言いづらそうにしながらも言った。 途端に悠莉の顔が曇る。 「…クロって呼ばれるの嫌だった?」 「いや、ユーリにそう呼ばれるときは食事にありつけるときだったから嫌じゃねえけど、さすがにペット扱いを受けてるみたいで…」 そう言われて思い至る。 クロはもともと悠莉が幼い頃に飼っていた犬の名だ。 人に向かって呼びかけるには、かなり失礼な呼び名だったかもしれない。 シリウスはさっと顔色を変えた悠莉を見てまずいという顔をする。 「いや、クロでいい」 「ううん、シリウスって呼ぶ」 悠莉は緩く首を降って言ったあと、上目遣いにシリウスを見た。 「…でもアニメーガスのときはクロでいいよね?シリウスの変身した姿、小さい頃飼ってたワンちゃんそっくりなの!」 にこにこ言う悠莉にシリウスは頷いた。 それを見てリーマスはかなり面白くなさそうにしている。 「シリウスのアニメーガスってさあ、一見グリムとか言われるくらいやばい顔してるのに。ユーリもあれのなにがいいんだか…。シリウスって昔からそうだよね、顔がいいからちやほやされて…」 「意味わかんねえ嫉妬すんなよ!」 ぐちぐち言うリーマスの背中をバシンと叩いて、シリウスは楽しそうに犬歯を見せて笑った。 ***** リーマスは悠莉さんがシリウスと仲良しなのが気に入らないっぽいです.笑 ← | top | しおりを挟む | → |