20時。
他の社員は取材先から直帰したようで、デザイン部に残るのは+++ひとりだけだった。
だいたいの業務を終えた+++は、いつものルーティーンに則ってメールを確認する。
急ぎの連絡が入っていた場合や朝一の作業に対応できるようにするためだ。
読んでそのままになっていた、「歓迎会およびおかえり会のお知らせ」と銘打たれたメールを開いてみる。
内容を読みながら、+++は先ほど現れた男のことをぼんやりと考えていた。
「谷垣くんとは会いたいけどなあ…」
小さなため息は誰もいない部屋に溶けて消える。
+++はカバンをひっ掴んでデザイン部を出た。
オフィスの玄関には、デザイン部のボス・鶴見を始めとした我が社の上役たちが数人何やらたむろしていた。
集団の中には尾形の姿もあった。おそらく飲みに行くとか行かないとかで上役たちに捕まったのだろう。
「お先に失礼します」
+++は頭を下げその横を通り過ぎる。
「お疲れ様***くん。これから尾形上等兵の土産話を酒の肴に皆で囲もうと思うのだが、良かったら君も一緒にどうかね?」
通り過ぎようとする+++を鶴見が呼び止めた。
鶴見は変わっていて、社員に軍隊の階級をつけて呼ぶ癖がある。鶴見は部下である+++をいたく気に入っているが、
とうの+++はと云えば、上司でありながら正直あまり得意なタイプではない。
「すみません、ぜひご一緒したいのですが明日は早くから打ち合わせがあるので今日は失礼させていただきます」
当たり障りない言葉を言いながら至極残念そうな振りをして断った。
「そうか、それは残念だ。気をつけて帰るんだよ」
「はい、お疲れ様でした。失礼します」
鶴見と喋っている最中ずっと尾形の視線が纏わり付いていることに気がついていたが、+++は一度も尾形を見なかった。
「こんばんわ」
自宅の最寄駅から少し歩いたところに、+++の行きつけの店がある。
ロシア料理を始め、北国の料理を振る舞うその店は住宅街にひっそりと佇み、一見するととてもレストランとはわからない。
+++が店に足を踏み入れると、店内には地元の老夫婦が1組いるだけで静かで穏やかな空気が漂っていた。
「おつかれさん。今日も残業か?」
厨房から顔を出した男は、+++が来ると嬉しそうに笑ってカウンターの一番端の椅子を引いた。
「これでも早い方だよ。キロちゃん、タルフンとペリメニください」
「分かった。少し待ってろ」
この店を営んでいるキロランケとは、+++が幼い頃からの付き合いだ。
キロランケが店を開いてもう3年になるが、+++はキロランケの作る料理が大好きでオープン当初から足繁く通っている。
時には閉店時間を1時間も過ぎた23時を回ってから駆け込んで来ることもあるが、そんな時でもキロランケは拒否することなく
+++の胃袋を満たすために腕を振るってくれる。キロランケの店は仕事に疲れた+++のいわゆる安息の地なのだ。
「今日はいろいろあって疲れたよ」
手渡された鮮やかな緑色の炭酸飲料を飲みながら、テーブルに頬杖をついて項垂れる+++にキロランケは苦笑する。
「…なんだ?また厄介な上司に絡まれたか」
「ううん…今回は違うの」
+++の睫毛が揺れる。
話すのを渋ってかしばらく黙る+++を、キロランケは急かさずに待つ。
「百之助がアメリカから帰ってきた」
キロランケの特徴的な眉毛がピクリと動いた。
「…そうか…」
「2年て長いようで意外と短いんだなって。…髪が伸びてたけど、全然変わってなかった」
「…………」
キロランケは黙ったまま調理を続ける。+++も黙ったままくるくると飲み物をスプーンでかき混ぜる。
先に口を開いたのはキロランケの方だった。
「で、+++はどうするんだ?」
「………なにが?」
「ヨリを戻す気があるなら俺は止めない。勧めはしないが」
「!縁起でもないこと言わないでよ、キロちゃんっ」
「なんだ?そういう話がしたいんじゃないのか?」
「ちがいますっ」
怒る+++に、できたてのペリメニを差し出せばおとなしくそれを受け取って食べ始めた。
+++が頼むペリメニは、他の客に出しているものより二つも三つも多い。
キロランケはなんでも美味しそうに食べてくれる+++を心底大切にしている。甘やかしている、といえばそれまでなのだが。
やがて食事をしていた老夫婦も帰り、店内はキロランケと+++二人だけになった。
「あと一人客が来たら店閉めるから、まあゆっくりしていけよ」
「もう?まだ21時だよ?ラストオーダー21時半じゃなかった?」
「週末ならまだしも、火曜日の夜だからな。これからの時間はほぼ閑古鳥だ」
「そんな緩めでいいんだ…」
そんな緩さがこの店の良さでもあるのだが。+++はそれ以上何も言わずにボルシチを美味しそうに啜る。
カラン、と音を立てて店の扉が開いた。
「いらっしゃ、…」
顔を上げたキロランケの動きが止まる。
何事かと不思議そうに顔を上げた+++の動きも、やがてほぼ同時に止まった。
21時5分。あと一人の客として、あの男がやってきたのだった。