小説 | ナノ


午後は印刷会社に出向いたついで+++に頼まれていたものも無事に渡し、打ち合わせも滞りなく進んだので驚くほどフットワークが軽い杉元は終始上機嫌だった。

時間は既に17時を回っていたが、オフィスに戻る前にいち早く+++に報告しなければいけない気がして白石に17時半ごろ戻ると連絡を入れまっすぐデザイン部に向かう。
ふいにデザイン部の前に来たところで室内から話し声が聞こえたので、杉元は思わずノックの手を止めた。

「久々の再会だってのに随分な態度だな」

「こんなとこで油売ってないで編集長に挨拶でもしてきたら?」

聞き慣れない男の声と、まるで別人のようにつっけんどんな+++の声。

「(…誰だ…?)」

杉元は扉を開けずに室内のやり取りに耳を澄ます。
ドク、ドク…と少しずつ心臓が速くなっていく。

「編集長を差し置いて+++に会いに来た俺をまずは歓迎しろよ。2年ぶりだぞ」

ドクンッ
杉元の心臓がより一層強く鼓動し、胸が締め付けられる。
男は彼女を+++と呼んだ。下の名前で、さも当然のように。

随分と馴れ馴れしく横柄な口を聞いているその声の主を杉元は知らない。
一体誰だ?彼女を+++と下の名で呼ぶこの男は一体、誰なんだ?

「早く行きなよ」

突き放す+++の声は冷たい。
今まで聞いたこともない声だった。


「失礼シマース」

いても立ってもいられなくなった杉元は、わざとガチャッと大きな音を立て勢いよく扉を開けた。
他の社員は取材にでも出かけているのだろう。室内には+++と、見慣れない男しかいないようだった。

「杉元くん、」

+++は驚いたような顔をしたが、戻ったんだ、とすぐに取り繕うように笑ってみせた。
なぜそんなぎこちない笑顔を、と思わず杉元の口から言葉が溢れそうになったところで、+++の机に寄りかかるように座っていた男はゆっくりと振り返り杉元を見た。

黒地にグレーの薄いストライプのジャケットを腕に持ち、同生地のベストにスラックスのスリーピースで些かかしこまった出で立ち。顎には整えられた髭が生え、頬にうっすら傷がある。
印象的な真っ黒い瞳のオールバックのその男に杉元は見覚えはなかったが、嫌な予感だけは身体中を取り巻いている。

「じゃあな+++」

男は杉元を一度だけ見た後すぐにまた彼女の方を見た。
杉元の横を通り過ぎようとするとき、男の口がまたも+++の名前を紡ぐ。

男のこれ見よがしの態度が杉元を刺激した。
昔から喧嘩っ早いのは自覚している杉元は、気がつけば尾形の前に立ちはだかっていた。

「どけ」

男は動揺した様子もなくむしろ挑戦的な目で杉元を見ている。

「失礼だな、誰だよアンタ」

「お前こそ誰だ」

「俺は杉元佐一だっ」

「知らんな」

「名乗ったんだからアンタも名乗れよ。必要なら名刺交換してやろうか?」

「編集部の尾形百之助だ」

「ふーん。俺も編集部だけどアンタのことは知らねえな」

「ちょっとふたりとも、何してんのっ」

初めて会って突然一触即発な自己紹介を繰り広げる二人を+++は慌てて語気を強め制する。
この短いやりとりで何かを察したらしい尾形という男は、杉元と+++を交互に見た後ははぁと意味ありげに笑みを浮かべそれ以上何も言わずに出て行った。



「ごめんね杉元くん。打ち合わせどうだった?」

しばらくの沈黙のあと、それを破るかのように+++は微笑みながら杉元に尋ねた。
その声に先ほどのような棘はない。普段通りの柔らかく人当たりのいい声だった。

「***さんが連絡入れてくれてたんで滞りなく進みました。見本も渡しておきました」

「ありがとう。ご苦労様でした」

表情は穏やかだが何処となく気まずそうなのは先ほどのやり取りのせいだろう。
確かに彼女の前で少し感情的になり過ぎたし、尾形が挑発的だったとは云えあの態度はさすがに良くなかったと杉元は小さくため息を吐いた。

「…何かすいません。つい突っかかっちゃって」

「ううん、あの人誰にでもああなの。こちらこそ何かごめんね」

彼女が尾形をあの人≠ニ呼び、尾形が彼女を+++≠ニ呼ぶ。
+++が尾形の態度をまるで自分のことみたいに謝るのは、少なからず二人の関係が浅からぬものであることを裏付けているような気がする。杉元の頭の中はもはやそのことでいっぱいだった。

しかしそれ以上聞けなかった。
聞けないからこそ、困ったような+++の笑顔に、杉元の胸がズキリと痛む。

話題を切り替えようと頭に浮かんだのは、今朝一斉送信されてきた歓迎会およびおかえりなさい会のことだった。そうだ、この際話をそらせるなら何でもいい。この勢いで聞いてしまおう。

「あの…***さん今朝の一斉送信のメール見ました?」

「一斉送信?なんだっけ?」

「ほら、なんかエリート野郎…じゃなくてアメリカ出向から帰ってきた社員のおかえり会のお知らせってやつです」

「!あ…あぁ、うん…見た見た。杉元くん行くの?」

「どうしようか迷ってて。俺中途だからその人たち知らないし…***さんは…行き…ます?」

「…う〜ん…行かない…かなぁ」

表情を曇らせ、至極言いにくそうに+++が首を捻る。
思った通りだ、やっぱり彼女はこういう飲み会的なものは好まないのだ。
予想通りといえば予想通りの答えに杉元はがっくりと項垂れる。杉元が参加する理由ももはや無くなってしまった。



「杉元遅ぇぞ〜」

オフィスに帰るなり自席にどっかりと座った杉元の様子で彼の機嫌がすこぶる悪いことは白石には分かっていた。こういう時は触らぬ神になんとやらで、その辺りは賢い白石はそれ以上絡むことをやめた。

「みんなちょっと集合で〜」

気だるげな声を上げ、編集部のボスである門倉が皆に集合をかけた。
門倉の気だるい声が響く時は大体何かしらの発令や報告があるときだ。座っていた社員たちは皆一様に立ち上がりわらわらと集まる。

「もう知ってるとは思うけど。アメリカ支社からメンバーがふたり帰って来たんで一応報告ということで」

「あ”ッ?!」

門倉の気だるげな紹介を受け、皆の前に出て来た男二人。
そのうちの一人に杉元は嫌という程見覚えがあった。思わず声が出たのを慌てて抑える彼の横で、白石がきょとんとしている。

「今日からまた本社で働いてもらう、尾形百之助と谷垣源次郎だ」

谷垣と呼ばれた大柄な体躯の男は、「初めての人もそうじゃない人もまたよろしくお願いします」と至極真面目そうな挨拶をして頭を下げたが、とうの尾形はといえば、まっすぐに虚空を見つめたままよろしく、と呟いただけだった。

「知ってる奴は今以上に、知らない奴はこれを機に仲良くしてやってくれ」

皆の拍手が響く中、とりあえず拍手をしながら杉元は恨めしげに尾形を見つめる。そんな視線に気がついたのか、尾形は杉元に向かってフン、とドヤ顔をして見せた。

「尾形ッ…まさかあいつが…!?」

「なになに杉元、尾形ちゃん知ってんの?」

「知らねえよあんなヤツッ!」

「ええっ??」

知らないと言いながらぎりと奥歯を噛み締めて嫌そうな顔をする彼を訳も分からず見つめる白石の首根っこを杉元が掴んだ。

「ヒィ!暴力反対っ!」

「アメリカ帰りのエリート野郎って、あいつのことだったのかよ!」

「だからなんで尾形ちゃんのこと知ってんのぉ?ともだちなのぉ??」

「知らねえって!」

「さっきから何言ってんのぉ?!」

そこのふたり〜仕事しろ〜と気だるげに門倉に注意されるまで、杉元の追求はやまなかった。



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