小説 | ナノ
第七出版の編集部に中途入社した杉元は、1階下のデザイン部によく出入りしている。
今日も編集部に間違って届いた郵便物を抱え、扉を出て暗い階段を降りる。1階分下りるだけなのでエレベーターよりも階段の方が手っ取り早い。
節電のためなのか昼でも薄暗い26Fの突き当たり、他の部署から隔絶されたような場所にデザイン部はある。杉元は慣れた手つきで少々錆びた扉を開けた。
「はよざーす」
16畳ほどの少々手狭なフロアにデスクが4つ。大きな本棚と、所狭しと無造作に置かれた紙の束。
他のフロアとは少々雰囲気が異なるデザイン部に入るなり杉元が声をかけると、積み重なった書類や校正紙や本の束に埋もれるように座っていた女性がゆっくりと顔を上げた。
「杉元くんだ。なんか用事?」
彼女は力の抜けた笑みを杉元に見せ、雑多なデスクから立ち上がって歩み寄る。
部屋の中には彼女の他に誰もいなかった。
「***さんだけスか」
「みんなまだ出社してないの」
「え、もう昼なのに?午後出社ってこと?」
「昨日遅くまで残ってたからね…」
さすがはデザイン部。フレキシブルといえばそうなのだろうが、やはり社内で「変わり者集団」と言われるだけあり雰囲気はいつ来ても独特だ。
杉元は室内を軽く見渡した後、持っていた郵便物を手渡した。
「もしかしてまたそっちに届いてた?」
「そうなんスよ。言っといてくださいよ宛先デザイン部宛てにしろって」
「前から言ってるんだけどねぇ」
受け取るなりそれを己のデスクに無造作に置いた彼女の名前は***+++という。
+++は杉元とは然程変わらない年齢だが、鶴見部長からの信頼が厚く若くしてチーフを任されている。デザイン部はデザイン部で独立した仕事があるのに、編集部ではカバーしきれない仕事まで回っている始末でそれだけ彼女が頼られているということなのだが、中途入社の杉元ですら、我が部署は少々デザイン部に負んぶに抱っこすぎるのではと思うほどだ。
とはいえ、負んぶに抱っこであるがゆえにこうしてデザイン部に出向く口実になるのも事実だった。
「いつも郵便を届けてくれる杉元くんにいいものあげる」
+++はふと思い立ったように己のデスクにあったホワイトチョコクッキーを半ば無理やり杉元の手に握らせた。
「…賞味期限切れてないッスよねぇ?」
「切れてない切れてない。昨日取材先で頂いたんだけど、わたしホワイトチョコ苦手なの」
「…ありがとうございます、いただきます」
職歴的には先輩だし、立場的には上司に当たってもおかしくないのに+++は杉元の軽口も内緒ね、と穏やかに笑って受け止める。
「(ああ、今日も可愛い)」
杉元は+++に惚れていた。かれこれ1年前から片思いしている。
「お前ほんっと+++ちゃん好きなのな。おばちゃんカレーうどん1つね〜」
杉元の昼はいつも(一応)先輩の白石と外に出る。
今日はお互い蕎麦の気分で、各々注文をしながら付け加えるように言う白石を杉元はちらと見たあとすぐにまたメニューに視線を戻した。
「俺せいろとミニカツ丼のセットで」
「今日もまた校正刷抱えてデザイン部行ってたろ。俺は見てたぞ」
「仕事してるんですぅ〜どっかの白石くんと違って」
杉元が+++に片思いしていることは、白石はとうに知っている。
彼女と話をするために間違って届いた郵便物をわざわざデザイン部に届けているのも知っている。当の杉元は、内線で取りにこさせりゃいいのにと毎回同じ突っ込みをする白石を無視し続けている。
「いつ諦めるかと思ったらなかなかしぶといな。俺なんて同期なのに未だデートの一つもできてないのに」
「諦める道理がねえし、第一お前が***さんに気安く話しかけんな」
「すいませんねぇなにせど・う・きなもので!」
+++と同期であることをひけらかす白石には慣れたものだが、ムカつくといえばムカつくのも事実だ。杉元がテーブルの下で思い切り白石の小指を踏みつけると、白石はイテェエ!と声を上げて翻筋斗を打った。
「言っとくけど俺先輩!お前中途入社!わかってんの?!」
「はいはい白石大先輩様」
運ばれて来たせいろに早速手をつけ始める杉元を恨めしそうに見ながら、白石も箸を割ってうどんをつつき始める。一応先輩後輩であるのに、このやり取りがいつしか日常になってしまったので互いに気を使うことはあまりなくなった。
「でもなぁー+++ちゃんはちょっとばかしハードル高いと思うんだよ。営業にも狙ってる奴いるってよく聞くし」
「はっ。営業の奴らなんてデザイン部とほぼ関わりないから別に怖くもねぇよ」
「なぁんでそう喧嘩腰なのかなぁ」
白石の言う通り、+++は社内で人気があった。
派手でない美しさが+++にはある。常に綺麗にしている服装や手入れされた髪や爪、誰にでも人当たりのいい性格と、少々ミステリアスな雰囲気が男性陣の興味をそそって止まないらしい。それでいて前述の通り少々近寄りがたい部署に所属していることもあり、それが余計に+++を「高嶺の花」にさせている。
杉元にとってはたとえそれが仕事上だけだとしても+++と関わりがある分己が誰よりも優勢だと思っている。
「喧嘩腰のくせに飯のひとつも誘えないんだから奥手なのか積極的なのか…」
しかし、杉元は思わず白石の言葉にぎくっと肩を揺らす。
この一年杉元と+++の関わりといえば業務での必要な会話か、すれ違ったときの一言二言の挨拶か、先ほどのようにお菓子をもらったり他愛ないやり取りばかりで一緒に食事に行くだとか飲みに行くだとか一歩踏み込んだ付き合いは未だない。
というのも、+++は飲み会や懇親会にほとんど顔を出さないので、誘うタイミングを逃しているというのが一番の理由だ。彼女はきっと外で会社の人間と会うことは好きではなさそうだと勝手に杉元は思っているので、なかなか一歩が踏み出せないでいる。
「セッティングしてあげようか?同期のこの俺が」
「うるせぇ白石うどん伸びるぞ」
強気なことばかり言いながら今一歩踏み出さない杉元を白石は強がりやがって、と笑う。
「そんなんじゃぁアメリカ帰りのエリートに取られちゃうぜ〜?」
「はあ?」
「あ、杉元は知らないんだったっけ〜?」
ニヤニヤと笑う白石の口から出た言葉は理解できないもののいい話でなさそうで、杉元は少々イラつきながらなんだよ、と答えを急かした。
「アメリカ支社に出向してた社員が戻ってくるんだってよ」
「アメリカに支社なんてあったのか。今日初めて知った」
「うち経済誌やってるだろ、編集部内で優秀な奴がだいたい2年くらい行かされるんだよ。修行的な感じでさ」
「フーン。白石には縁のない話ってわけか」
「杉元〜?俺先輩。何回言えばわかんのぉ?」
「んで、そのアメリカエリート野郎がどうかしたのかよ」
「いや別にどうもしないんだけどぉ」
なんか一波乱起きそうだと思って。
ここまで言っておきながら一言で言葉を濁す白石に、杉元は苛立ちを隠さないままチッと舌打ちした。どうせいつもの煽りだろう。そのエリート社員が+++に関係があるならまだしも。杉元は深く聞くのもやめて、早々に食べ終え箸を置く。
いつもの昼休みはこうして過ぎて行く。
いつの間にか垂れ込めている重たい雲が、幸先を案じていることなどまだ誰も知らずに。
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