「彼、そう言う人なんです。付き合う前から結構冷たいところがあって…」
うんうん、そうなんだ、そんな感じするよね尾形くんって。
「でも二人きりの時は優しいんです。だから私…」
大丈夫だよ、二人の時に優しいなら。
「彼のこと、信じたいからもう少し頑張ってみようと思って」
うん、何かあったらいつでも話聞くからね。応援してる。
「なんちゃって」
「…いい性格してるなお前」
「しょうがないじゃん、私に相談してくる方が悪いよ」
殺風景なほど無駄なものがない百之助の部屋で、私は百之助の腕に抱かれながらおどけたように笑って見せた。百之助はタバコを吹かして天井を見つめている。
暑いだなんだと言いながら腕枕の腕を解かないのは、体を離したら眠れないからだ。
「かわいそうな子。まさか相談に乗ってくれる良き先輩が自分の彼氏と浮気してるなんて思ってないんだろうな」
「…ハッ、今更」
「最低よね、ほんと」
百之助とは同期同士だ。
お互いに酒が強いのが縁で、入社当初から二人だけで飲みに行くことが多かった。
終電をなくして勢いでホテルに入ったある一夜を皮切りに、そこから既成事実を積み重ね続け、今に至るまで体だけの関係をなし崩し的に続けてきた。
私と彼が恋人同士だったことはない。
二人の間にあるのはあくまで『体だけ』という暗黙の了解。
だから半年前、百之助の口から2年後輩の“あの子”と恋人関係にあると告げられた時も特段何も感じなかった。
百之助に恋人ができたことで、実質私は浮気相手になった。
彼の本来の恋人である“あの子”は私の後輩でもあって、私は彼女の恋の悩みを聞いてあげ、時には退社後一緒にご飲を食べながら相談に乗ってあげる、所謂よき先輩を演じながら“あの子”が来ない金曜の夜を狙って私が百之助の家に出向き、“あの子”が泊まりに来る土曜の夕方まで一緒に過ごすルーティーンができてしまっていた。
それでもお互いこの関係をやめようとしないのは、結局ふたりとも性格が悪いのだ。
と最近思うことにしている。
「私、今まで一切の痕跡も残さず帰ってるのすごくない?」
「確かにな。素直にそこは感心する」
「そりゃどうも」
「大体、悩んでるからって誰彼構わず恋の相談するような女はどうかと思う。あいつはお前以外にも、同期の女とか、学生時代の友達だとかにも俺の話をしてる」
「いろんな人の意見聞きたいんじゃない?」
「結局浮気されてるのに意見もクソもあるかよ」
「だからそういうとこ言わないの」
苦々しげに呟く百之助に、私は所謂優しい先輩の顔で窘めてみた。
“あの子”は何も悪くない。そんなことは分かっている。
悪いのは私で、“あの子”が百之助に責められる謂れは一切ないのだ。
誰かを傷つけなければ一緒にいられない私たちは、本当に愚かで、悲しくて、情けない。
その悪循環に酔っているだけで、物分かりのいい女みたいなことを言いながら私は百之助の肩口に鼻先を押し付けた。
微かな汗と、タバコと、香水の匂い。私はこの香りがとても好きだ。
きっと、あの子”も同じように、好きだろう。
「ねえ百之助」
「何だ」
「あのね、来週の土曜日。泊まりに来てもいいかな?一緒に見たい映画があるんだ」
「………」
土曜日の夕方は“あの子”の日だ。
百之助は珍しく驚いたような顔をしている。
わかった、泊まりに来い。
そうとは言ってくれないのだ。
「…冗談だよ」
「+++、」
「冗談だって。…そろそろ帰ろうかな、買い物して帰らなきゃ」
からからと笑って首を振る私に、百之助は複雑そうに視線を彷徨わせる。
私はどこかで、百之助の恋人という立場になれた“あの子”に汚い優越感と醜い嫉妬を抱いているのだと思う。だから百之助に恋人ができたと告げられた時も、特段何も感じなかったのではなく、何も感じないように努めていただけだ。
Sat.16:47。ベッドサイドの電子時計は無情にも夕方を指す。
ベッドの下に散らばった下着をそそくさ身につけ、乱れた髪にブラシを通して整える。
その間百之助は、それこそ何も感じていないような顔で新しいタバコに火をつけていた。
「じゃあね、また会社で」
「+++」
狭い玄関、履いてきたヒールを突っかけて帰ろうとする私の体に、急にグン、と体重がかかった。
百之助が私の手を掴んでいる。名残惜しむように力のこもった指先が私の手首に食い込んで離さない。距離を詰められて、背中が扉にとん、と触れる。今まで経験したことのないほど速度を増した心臓がうるさいほどに鼓動して、思わず体の奥が熱くなった。
「っなに、…」
「……いつ出会ってたら俺たちは、…」
「……」
「正しかったんだ」
ああ、そんな声は そんな顔は そんな言葉は全部全部ずるい。
グラリと地面が揺れる。どこかで間違って、どこかに置いて来てしまった恋慕が
今音を立てて崩れて行く。
いてはいけない場所にいる。ただ百之助が愛おしい。
「今ならまだ間に合うのか。俺とお前が、」
「またね、百之助」
また、来世で。
私は百之助の手をやんわり離させ、できるだけ朗らかに、明るく言って見せた。
百之助は黙ったまま、行き場のない手を羽織っただけのパーカーのポケットに突っ込み、大きなため息の後何とも言えない表情で力なく笑う。
「…いい性格してるぜ、本当に」
ギイ、バタン。
百之助の、ひどく優しい声をかき消すように鉄の扉が背後で閉まる。
空はすっかりオレンジ色を纏い、取り残された飛行機雲が長く伸びては西の先で消えていた。
夕方の涼しい風がザワ、と木々を揺らし私の体を通り抜けていく。
駅までの行き交う人の波の中、私は一人立ち尽くして呟く。
いつの間にか、化粧を施していない私の頬は一粒の涙で濡れていた。
「今度は正しくありますように」
(5000hit投票企画 「恋人になってください」
第五弾:踊れない二人が嘘をつく/尾形)