小説 | ナノ


新入社員の鯉登くんは他の新入社員とは少々雰囲気の違う子だった。
浅黒い肌に端正な顔立ちとモデル並みの体型。身につけている物は頭のてっぺんからつま先まで全身上等なものだし、物腰や仕草も何処ととなく育ちのいい雰囲気を醸し出している。

彼が我が社の役員の息子で、生まれも育ちも九州の御坊ちゃまだと知ったのは彼の教育係を任されるようになって1ヶ月ほど経った頃だ。
確かに、みんなでお昼に行こうと誘った時にはやたらと高いホテルのランチを選ぼうとしたり、事あるごとにタクシーを使おうとしたりする。時折九州の方言が出るときはだいたい何かに納得していない時や興奮している時だということも分かってきた。

そんな彼を引き連れて外回りから会社に戻る途中。
駅に着くなり電光掲示板に表示された『運転見合わせ』の文字に、私と鯉登くんは呆然と立ち尽くしていた。
改札の前のホワイトボードには「車両トラブルのため」とマジックで殴り書きされている。

「運転見合わせかあ…」

「この駅だと他の路線は通ってないですからね」

この駅は他の路線が通っていないので、会社に戻るにはこの電車を使うか、タクシーを使うという選択肢しかない。
どうしたものかと唸る私の横で、鯉登くんは何か言いたそうな顔をしている。

「鯉登くんこの後仕事は?」

「今日はもう特に」

「じゃあ直帰していいよ。課長には伝えておくよ」

時間はすでに定時の18:00を回っている。
まだ配属されて間もない鯉登くんは仕事のほとんどを私と共有しているので、会社に戻ったところですぐに片付けなければいけない業務があるわけではない。定時を過ぎているので直帰したとしても課長は文句を言わないだろうと踏んで、私は鯉登くんを先に帰すことにした。
しかし、当の本人は特徴的な眉毛をひそめて険しい顔をしている。

「…***さんは?」

「私は一応会社戻るけど」

「そいなら、おいも戻る!」

「へえ?」

「タクシーで戻りましょう」

「ここからいくら掛かると思ってるの。うちの会社ケチだからダメだよ」

「キェッ!?こ、こんな状況でも!?」

鯉登くんは至極信じられないと言ったリアクションで奇声をあげた。
やっぱり金銭感覚がずれていると思う。
今となっては彼を一般的な感覚に近づけるため教育するのも仕事のうちなので、ここは敢えて厳しい態度で彼の提案を突っぱねた。

「…それなら再開まで待つしかないでしょう」

「うーん…」

先ほどから駅員が運転再開の目安時間をアナウンスをしている。時間までは読めないものの、再開までそう時間は掛からなそうだ。
私はちらと時計を見た後、駅中のカフェに視線をやった。

「…ちょっとだけお茶する?」

「!!」

「課長には内緒だからね」

「はい!」

不満げだった顔をぱあっと上げて、鯉登くんは至極嬉しそうに大きく頷いた。立ち往生していても仕方がない。飽くまで課長には内緒にして、私と鯉登くんは運転再開まで駅中のカフェで様子を見ることにした。


「アイスコーヒー2つ」

「………」

「何?鯉登くんモンブラン食べたいの?食べていいよ、課長には内緒ね」

「いや…モンブランはニューオータニのものしか食べないので」

「…ああそう」

コーヒーを注文する私の横で鯉登くんは当たり前のよう言った。
ケーキメニューをしげしげと眺めていたのも、おそらくこんなに庶民的な店に入ったことがないので珍しいのだろう。

「***さんはこういうカフェにはよく来るんですか?」

「んーそうだねぇ、休みの日とか結構行くよ」

「そうですか…」

運ばれてきたアイスコーヒーを流し込むと、暑くなってきた屋外で立ち往生していた体に冷たいコーヒーが沁み渡った。
しかし鯉登くんはコーヒーに手をつけず私の目の前で黙り込んでいる。カラン、と溶けた氷がグラスの中で崩れた。

「どうしたの鯉登くん」

どことなく緊張している様子の鯉登くんは私の呼びかけにハッと我に帰り、少し照れ臭そうにようやく口を開いた。

「***さんと二人でこういう所に来るの、初めてな気がして」

「…あ、確かにそうだねぇ。…もしかして緊張してる?」

「ええ、まあ…」

いつも度胸のある鯉登くんが、ここに来て突然緊張し始めたものだからこちらも少々緊張してしまう。
何も二人で飲みに来たわけでもない。電車が運転再開するまでの短い時間のちょっとしたお茶だというのに、なぜか二人変な緊張感があり、私は手持ち無沙汰にカラカラと氷を回しながら笑って見せた。

「大丈夫だよ、心配しなくてもここは私が払うから」

「!そげんこつできもはん!」

「ええ?」

「そこは男ですからおいが、…いや、私が払います」

「そんなのいいってば。そういうのは好きな女の子にしてあげるもんだよ」

「………」

突然飛び出した方言に驚いている私に、鯉登くんは男だから自分が払うと譲らない。
九州男児のプライドだろうか、それでも曲がりなりにも先輩の私が新入社員の男の子に奢られるわけには行かなかった。
鯉登くんは難しい顔をして押し黙ったまま、なかなかコーヒーに手をつけないので氷はすっかり溶けてしまっている。

「…誰と行ってるんですが」

ふいにぽつりと鯉登くんが呟いた。

「うん?」

「***さんは休みの日に誰と行ってるんですか、カフェに」

「え」

「さっき言ってました。休みの日にカフェに行くって」

「言った、けど」

「誰と行くんですか。好きな男と、ですか」


私はこちらを見る真剣な眼差しに驚き、しかもその顔がやたらとカッコいいものだから、思わず氷を回して遊んでいた手を止める。
場を繋ぐための冗談で言っているようには到底思えなかった。

「ち、違うけど」

その気迫に押されて絞り出すように呟いた私の顔を見て、先ほどまで険しかった顔はどこへやら、パアッとまるで光が指したような嬉しそうな表情で突然ガタッと立ち上がった。

「そいは彼氏はおらんちゅうこっと!?」

「ちょ、声、声大きいって!」

その大きな声になんだなんだと店内中のお客さんがこちらを見たので、私は慌てて鯉登くんを制止して座らせる。
鯉登くんはすっかり薄くなったアイスコーヒーをいっきに飲み干してしまった。

「それはおいにも望みがあっちゅうことじゃな」

彼は機嫌が良さそうに、いつもの丁寧な態度とはまた違う、まるで子供のように嬉しそうな顔でしかも方言全開で徐に私の手を握った。大きくて筋張った褐色の指先は、グラスを持っていたせいか少しだけ冷たい。


「狙っちょった。***さんのこと」


またも、かっこいい顔で言う。
心臓が痛いほど高鳴って、いっきに熱が集中するのを感じる。


狙ってた?
鯉登くんが?私を???



『お客様にお知らせいたします。大変長らくお待たせいたしました。K線、間も無く運転を再開いたします…』

状況が掴めず赤い顔のままぽかんと情けなく呆気にとられた私を他所に、コンコースに響く駅員のアナウンスが駅中の店内にも漏れ聞こえた。どうやら運転を見合わせていた電車が動き出したらしい。先ほどまでカフェで寛いでいた客の何人かが、電車が動き出したことでちらほらと席を立ち始めた。

「動きましたよ***さん。そろそろ行きましょうか」

ようやく私の意識がこちらの世界に戻って来た頃にはすでに鯉登くんは私の手からぱっと掌を離し伝票を持ってスタスタとレジに歩き出していた。私は慌ててカバンをひっ掴み、財布を取り出して後を追う。

「ちょ、待ってよ、だからここは私が、」

「…***さんが言ったんじゃないですか」

「え、」

「こういうことは好いたなおなごにするんもんじゃ」

「!!」

固まっている私を後目に、鯉登くんはさっさと会計を済ませて一足先に改札に歩き出していた。


「***さん、会社に戻るんじゃないんですか」

「…今日はもう直帰する」

「じゃあおいも一緒に帰ります」

「………」

「今度から一緒に出勤じゃな+++」

「急に呼び捨て!タメ口!」



翌日。未だ訳のわからない感情を抱えて出社したものの秘密にできない主義らしい鯉登くんのせいでカフェでの一連のやりとりは全て知れ渡っており、しかも返事もしていないのにすでに付き合うことになっていて部署内の人々からの質問責めに遭うのだった。


今時の九州男児は末恐ろしい。



(5000hit投票企画 「恋人になってください」
第三弾:絢爛にして秒殺/鯉登)