小説 | ナノ


「あれ、髪型変わった?」

「そうなんですよぉこれから接待なので、巻いてみたんです。どうですかぁ?」

「おーおー随分気合入ってんね。いいんじゃないの、頑張って」

「はぁ〜い。いってきま〜す」

PM18:15。
外出から帰って来た門倉課長が、バッチリキメた入社2年目の営業の女の子に道すがらに声をかけている。女の子はまんざらでもなさそうに、くるんと巻いた毛先を一房取ったりして何やら楽しそうに話し込んだ後オフィスを出て行った。

ひどい時にはTシャツで出勤するような門倉課長が、今日はいつになく随分とかっちりした格好をしている。かと思えば椅子に座るなりあー疲れた、とネクタイを外しポイと己のカバンの上に投げ捨てた。

「遅かったですね。どこで油売ってたんですか?」

「…あのねえ+++ちゃん、俺を何だと思ってんの?商談だよ商談」

「お昼に鰻食べたでしょう」

「え?何でわかんの?」

「課長、商談の前はだいたい鰻じゃないですか」

門倉課長もとい門倉さんは私が入社して初めての上司で、課長に昇進する前からの付き合いだ。
昔からいつもこんな調子で、うっかりしているしだらしがないし気だるそうにのらりくらりとしている。中間管理職として結構面倒ごとに巻き込まれやすいタイプの人で、社内ではことさら「ダメ課長」で通っている。

でも実は怠けているように見えて本当は誰よりも周りを見ていて、人知れず尻拭いに奔走する彼の素顔を私は知っている。
年齢は二十近く離れている彼に、入社当時から抱いている淡い想いを伝えたことはない。付き合いが長いことと、私だけ下の名前で呼ばれていることが唯一の私の特権だ。
チョイワルな容姿でしかも独身だからか、女性社員には密かに人気があるのも知っている。先程満更でもなさそうにしていた営業の女の子もまた然り。
それが私の心をいつも逆撫でしていることも知らないで、バレてたか〜と呑気な口調で頭を掻く門倉課長の横に立ち申請書類をばさりと置くと、課長は気だるげな視線を私に向けた。

「来週の土日あたり取材に行ってこようかなと」

「…土日?休み潰すことないでしょ」

「…平日は仕事立て込んでて時間取れないんです」

「働きすぎじゃないのぉ?」

「代休もらいますから」

門倉課長は私が提出した出張申請と残業申請、2枚の書類とらめっこしている。
にらめっこされたところでカツカツのスケジュールを動かすことなど到底できないので、私は課長がちゃんとハンコを押すまで傍で待つことにした。

ふいに課長が時計をちょいちょいと指差す。
なんですか、と眉をひそめる私に、あからさまなため息を吐いた。

「あと10分で定時だよ。ノー残業デーなんだから早く帰ってね」

「…無理ですよ」

「…+++ちゃん、今月残業何時間やってると思ってんの?」

「無理ですって今日入稿なんですから。あ、残業申請の方もハンコお願いしますね」

曲がりなりにも編集の仕事に携わる私は入稿、校了前は激務だ。こんな時に土日に悠長に休んでいる暇もノー残業デーで定時で帰ってる暇もない。ノー残業デーの日に残業する場合は申請が必要なので、ついでにその書類も渡すと門倉課長はふーんと不満げな顔をしたあと大して読んでいない書類に大して真剣でもない動作でハンコを押した。

「門倉さーん、店どこにします?駅前でいいですか?」

「わーかったよ。いいから先行ってろ」

18:30。定時のチャイムが鳴る。
社員たちは皆一様に荷物を持って退勤の準備を始めた。
社員のひとりが酒を煽る素ぶりを見せると、門倉課長は至極めんどくさそうに立ち上がり、ほいじゃ、と一言呟いてオフィスを出て行った。




PM21:00。

「終わった…」

印刷会社にデータを送り終え、ひとまずの所今日のノルマを終えた私はそのままデスクに突っ伏す。オフィスには私以外もう誰もいなかった。

「最後に定時で帰ったのいつだっけ…」

静まり返ったオフィスに残っていると、入社したての頃をよく思い出す。
まだ門倉課長が門倉さん≠セった頃の話。
新入社員の頃の私は仕事のリズムが掴めず、直属の上司だった門倉さんを道連れにして一緒に終電を逃してよくタクシー代を出してもらっていた。
私は深夜まで門倉さんと2人きりであーでもないこーでもないと居残る時間が好きだった。
今でこそ門倉さんが課長という管理職になったことで、そういうことはもうなくなったけれど。

「…なんか」

寂しい。
ぽつりと呟いた言葉は静まり返ったオフィスに溶けて消えた。
私とは違う忙しさに追われるようになった門倉さんと、以前ほど言葉を交わす機会が減った今となっては、もう好きだった時間は戻っては来ないのだろう。ノスタルジーに浸る自分に呆れ、散らばった校正紙を片付けてのろのろと帰宅準備をする。


ガタン。
ふと後方で響いた物音に、清掃のおじさんだろうか、と振り返る。

「終わった?仕事」

そこには、定時退社して飲みに行ったはずの門倉さん…もとい課長がジャケットにノータイ姿で立っていた。
私は些か動揺しながらはい、とだけ返事を返してガサゴソと片付けを続ける。

「帰ったんじゃなかったんですか?」

「うん」

「…お酒の匂いする」

「+++ちゃんが終わるまで飲んで待ってたんだよ」

隣に椅子を引いて座る課長から、ほんのりアルコールとタバコの匂いがする。
私の仕事が終わったのを見越して飲み会を抜けてきたということだろうか。

「わざわざ会社戻って来なくたって、連絡してくれれば…」

「連絡したって来ないじゃん、+++ちゃん」

「…まあ…確かに…」

わざわざ飲み会の席を抜け出して会社に戻ってきてまで私のことを気にかけていた事実に少なからず心が浮き足立つ。期待してもいいのだろうか。心臓が踊り出す。

「部下がひとり残って仕事してんのにほっとけないでしょ」

門倉課長は誰よりも周りを見ている。ダメ課長なんて言われているけれど本当はそんなことなくて
貧乏くじ引いたって結局最後まで気にかけてくれていることなんて私は社内の誰よりも全部分かっていたはずだ。
部下だからそうしてくれているだけ。期待しても、仕方ないこと。残酷な事実が私を現実に引き戻す。

「…お気遣いありがとうございます。もう帰ります」

「そうか。そりゃ良かった」

「お疲れ様でした。失礼します」

「いやちょっと、」

カバンをひっ掴んでさっさと帰ろうとする私の腕を門倉課長が慌てて掴んだ。
至極可愛くない顔をして私は、彼の顔を見ないまま立ち止まらざるをえない。
呆れたようにため息を吐きながらも、その手を離してくれる気配はない。

「飲み会なら行きませんよ」

「いや違うんだって」

「…何ですか?」

「サシ飲みのお誘いをね」

「…門倉さんとですか?これから?」

「他に誰がいんのよ」

私はなんて可愛くないのだろう。せっかくの課長からのお誘いだと言うのに。
思わず怪訝な顔をする私に門倉課長は頭を掻きながら言葉を探しているようだった。
なかなか手首から離されないその手を気にしつつ私は諦めたようにデスクに座りなおす。

「そうでもしないとさぁ、+++ちゃん何も話してくれないから。今仕事どんな感じ〜とかさ」

「1対1で話したりしなくたって、課長はちゃんと私のこと見てくれてるでしょ?」

「…ずいぶん信用されてんのね、俺」

「当たり前じゃないですか」

長い付き合いですもん。その言葉だけは飲み込んで、早くこの空間をどうにかしなければ、と内心焦る私に門倉課長は座ったまま、膝が触れ合うほど近づいた。

「ちょ、近、なんですかいきなりっ」

「課長ってのやめない?とりあえず」

「え、」

「前みたいに門倉さんでいいよ」

「そう言うわけにはいかないですよ」


「+++ちゃんは特別」


門倉さんの目が据わっている。酔っているんだろうか。
私は特別。どう意味なのか、良くわからなかった。
ただそれでも触れ合う膝と、掴まれたままの手首にとくとくとく、と速くなる心臓はその先を期待する。言葉では部下≠心配しておきながら、その態度は裏腹だ。門倉課長はとてもずるい。
特別だなんて、期待してしまうのに。


「+++ちゃん、俺のこと一番見てるよね」

「………そ、れは」

「俺が商談前は必ず鰻食うのとかさ、うぬぼれじゃなければそんなのわざわざ覚えてないよ」

「………………」

「中間管理職は辛ェもんだ。部下には迂闊に手も出せねえ」


門倉さんは困ったように笑う。
ああ、この顔が私はとても好きだ。


「+++ちゃんが俺のこと好きで好きでたまらないのも、俺ちゃんと知ってんの」

「!ちょっと、セクハラ!」

「なのに+++ちゃん、俺のことずーっと見てるわりに鈍いんだよなそういうとこは」

「……え、」

目は据わったまま、だけど真剣なんだろう。門倉さんは私の手首を握っていた手で私の手のひらを包むように握る。

「もうさ、門倉課長の女になりなよ。この際」

いっきに顔が、体が熱くなる。
タバコの匂いが混じった香水の匂いが、やけに私の心臓を刺激する。

入社当時から何かと世話を焼いてくれる門倉さんを好きになって、だけど彼は課長になって、築いていたはずの距離が遠くなった時、私は門倉さんに一番理解がある気でいながら心のどこかで彼に理解してもらうことを願っていたのだ。

「………セクハラダメ課長…」

「いや返す言葉もねえけどさ、俺にそんな口聞けんの+++ちゃんだけだからね?」


自分が情けなくて、恥ずかしくて、でも嬉しくて。
門倉さんはずるい。ダメ課長のくせに、ずるいのだ。
誰にでも優しい課長≠ネんていらないのだ。
私にだけ優しい門倉さんでいてくれなくては。


「…………なってやりますよ、門倉課長の女に」

「おう、そうこなくちゃ」


だから私は求める。
付き合いが長いことと、社内で私だけ下の名前で呼ばれていることが唯一の私の特権なのだから。



あーあ、バレたら部署異動だなあなんて
そんなくだらないことを考えながら、結局サシ飲みのお店が門倉さん行きつけの駅前の立ち飲み屋でも許してあげることにする。

出張当日の朝、取材先に向かう新幹線に突然現れた門倉さんに驚き、私はこの時初めて門倉さんによって出張書類の人数欄を改竄されていることを知るのだった。



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第二弾:鈍転ガール/門倉)