小説 | ナノ


職場の移転が決まり、周囲が徐々に慌ただしくなる中私は変わらずK町での生活を続けていた。

少し前まで世間を騒がせていた、ヤクザの抗争絡みのニュースはワイドショーからすっかり鳴りを潜めた。抗争とやらが集結したのかどうかは私には知る由もないが、ここのところのK町は比較的静かだ。

杉元さんから伝え聞いた話ではあの夜、尾形は自身が所属していた組織から足抜けを企てたことで一悶着を起こし、抗争寸前にまで発展したのだそうだ。怪我はその時に負ったもので、その後の彼の行方は未だ誰も分からないらしい。

「…なんだか、何度聞いてもやっぱりピンとこないですね。足抜けとか抗争とか…」

「むしろピンとくる人の方が少ないと思うよ」

杉元さんとコンビニの前に並んでアイスを食べながらぼんやりと呟く。

「一度あの世界に入ると抜けるのはそう簡単じゃない。尾形みたいな奴はなおのこと」

少しだけ溶けかけたアイスを口にせずじっと見つめる杉元さんの眼差しが、彼らが生きて来た裏社会の壮絶さを物語っているような気がする。
私はしばらく何も言わず、バニラアイスをプラスチックのスプーンでほじくり返しては食べるのを繰り返していた。彼らにかける適切な言葉が見つからなかったからだ。

「…会社移転するんだって?」

「そうなんですよ。引っ越して来たばっかりなのに」

「また会社の近くに引っ越すの?」

「うーん…」

思い出したように言う杉元さんに、私は曖昧な返事を返す。
バニラアイスももはや溶け始めて水分を含んだ紙のカップがふにゃふにゃになっている。私はスプーンを咥えたまま、晴れた空を見上げた。

大丈夫。戻って来ますよ、彼はきっと

ふいに、頭の中にマッちゃんの言葉がぼんやりと浮かぶ。

帰巣本能だなんて。彼に、尾形に言ったらきっと馬鹿にしたように笑うだろう。
太陽だとか星座だとか、自分のことをそんな輝かしいものだとは思わないけれど。
杉元さんにその話をしたら、猫なんて可愛いもんじゃねえよと悪態をついたので思わず笑ってしまった。

「でも猫ってさ、死ぬ時は姿見せないっていうじゃん」

ぽつ、と杉元さんが呟く。

たかが迷信を聞かされただけでざわつく心。

明らかに不安そうな顔をしていたんだろう。
杉元さんが少し慌てて私の顔を覗き込んだ。

「いや、今のはごめん。冗談だよ」

「わかってますよ」

コンビニの駐車場に爽やかな風が吹く。
きっともうすぐ夏がやってくる。

「この街のこと好きになれてるのかどうかはわからないけど、杉元さんや尾形さんに会えたのは本当だし」

「…+++ちゃん」

「それに、アパート2年契約だし」

もう少しだけ暮らしてみようかな。
尾形さんが帰ってくるまで。

「厄介な奴に惚れちゃったな、尾形も+++ちゃんも」

杉元さんは優しく笑ってそっと頭を撫でてくれた。


私は彼を待っている。
彼の街で、太陽だとか星座だとか少しだけ烏滸がましい存在になれるよう祈りながら。








それから数ヶ月。

空気が随分肌寒く感じる季節が今年も巡って来た。
18時ともなれば辺りはすっかり暗い。
いよいよオフィス移転の準備も佳境に入り社内は少し慌ただしいものの最近になってようやく仕事のペースを掴んできた私は、以前より幾分早く帰れるようになった。

寒くなって来た今夜は杉元さんと、以前仲良くなった白石さんと明日子ちゃんとで鍋パーティーだ。相変わらず賑やかなK町に着き駅を出たところで、まるで見計らっていたかのように明日子ちゃんから電話が入る。

『+++、デザートの雪見だいふく買ってきてくれ!杉元が買い忘れたんだ。あんなに忘れるなと言ったのに』

かと思えばその電話はすぐに杉元さんに取って代わられた。

『あ、+++ちゃん?杉元です。ごめんね、雪見だいふくお願いできる?』

「了解です、人数分買っていくよ。他に買うものある?」

『特にないかな。+++ちゃんが食いたいものあればなんか買って来てくれてもいいけど』

「じゃあ何かしら考えておくね。もうすぐコンビニだからあともうちょっと」

『+++、早く来ないと白石と杉元が先にビール飲み始めちゃうから急げ!』

またも電話を代わったらしい明日子ちゃんの背後では白石さんの声も聞こえる。賑やかなまま切られた電話を見つめて思わず微笑みながら私は相変わらず賑やかな繁華街をすり抜けるように、尾形と出会った当時のまま変わらない場所にあるコンビニへと向かった。

コンビニの前には相変わらずたむろする人々や酔っ払いの姿が見られるが、それもK町の日常の一部として切り取ることができるようになった。私も随分と図太くなったものだと自分自身で感心してしまうくらいだ。

「…なんか随分時間が経ったみたい」

明日子ちゃんに頼まれた雪見だいふくと手軽なツマミなどを一通り買い終えてコンビニを出たところで立ち止まりひとりぽつりと呟く。

この場所であの時尾形と出会ったのだ。
猫と戯れているとき、餌付けするなとからかわれて、恥ずかしくて、悔しくて。

いつの間にか膨れ上がった恋に相変わらず支配されている。
彼がいなくなってから随分長いこと経ったような気がする。
返すことのできない黒いジャケットはいつまでも部屋の壁にかかっていて、過去にできない想いを責め立てる。
会いたいなんて、もう思っても仕方ないのに。
私は気を取り直すよう冷たい空気を吸い込んでからゆっくり歩き出す。

ふいに目の前を小さな影が過ぎった。


「あ、」


思わず声を上げると、その小さな影は立ち止まりじっとこちらを見ている。
見覚えのあるこげ茶の毛並み。引っ越してきてすぐに出会ったあの時の子猫だとすぐにわかった。

「君、あの時の」

子猫は少し大きくなった体で歩み寄り、以前と変わらない人懐っこさで私の足元に体を横たえ甘えるように鳴いた。
私はしゃがみ込み、その小さな顎をそっと指先で撫でてやる。

「…君はやっぱり強い子だね」

生きててくれたんだ。
胸の奥が温かな温度で包まれる。少しだけ涙が出そうだった。




「餌付けするなよ」





しゃがみ込んだ私の頭上から影が指す。
どこか心地よく冷たい声が降り注ぐように響き、タバコと香水の香りが私の鼻腔をふわりと擽ぐる。

私の手元で寛いでいた子猫はいつの間にかいなくなっていた。
私はしゃがみ込んだまま、アスファルトに伸びた影を見ている。



「+++」




ああ

この声。



「…してませんよ」



涙で視界が滲む。
振り向けない。
情けなく言い返したまま立ち上がろうともしない私の目の前に、すらりと伸びた脚が回り込んで同時にしゃがみ込む。

頬の傷。
少しだけ伸びた黒い髪。
深く黒い瞳が覗き込んで来る。


「おがた、さ…」


尾形さん。


声が出ない。

ずっとずっとどうしようもなく焦がれていた。
会いたかった。
尾形さん。

尾形さん。


ぽろ、と溢れた涙を彼は笑いながら少し乱暴に拭った。


「ひでぇ顔だな」


ひどく優しい甘やかな冷たい声で以前と変わらずに言う。

その身に黒いジャケットは、ない。


「少し成長したか?」

「…尾形さん、わたし、」

「覚悟できたか?」

「え、」

私の二の腕を柔らかく掴んで立たせる。くらりと後ろに倒れそうになる私の体を、腰に腕を回して支えた。

「俺の女になる覚悟」

「…ヤクザの女にはならないです」



「言ってるだろうが。『俺の』女だ」



今にも唇が触れ合いそうな距離まで近づいて、言う。
私たちの間に引かれていた境界線はいつの間にかどこかに消えてしまった。



「当たり前じゃないですか。…私、悪い女ですもん」



尾形はまた笑う。
いつぶりだろう、その引き締まった体にしがみつくように抱きついた。
背中にしっかりと回されたあなたの腕で、このまま押しつぶされてもいっそ本望だろう。



その猫ちゃんにとっては+++さんが太陽や星座なのかもしれませんね



「尾形さん、猫の帰巣本能の話知ってます?」

「…あ?」

「猫ってね、もしも迷って帰れなくなった時は太陽や星座の位置から巣の場所を割り出すんですって」

「ハッ…迷信だろうが」

「その話聞いてなんだか私、尾形さんみたいだなって」

「まるで俺が野良猫みたいな言い草だな」

「同じようなものじゃないですか」

「…俺の街だから」

「え?」

「俺の街だから、帰って来たんだよ」

「……そうですね」




おかえりなさい、尾形さん。




私は今日もあなたと生きていく。
あなたと出会ったこの街で。




(2019.6/24完結)