小説 | ナノ


出社して早々、オフィスの移転が全社に発令された。
書類には長い文章がつらつらと書かれているが、要するに半年後には今のビルを引き払って5駅ほど先のオフィス街に引っ越すという話だ。

「……………」

「まあ何というか……ご苦労さん」

ざわめきのなか書類を持ったまま呆然と立ち尽くす私の肩を、月島さんが哀れそうにポンと叩く。
オフィスの場所に合わせてわざわざ行った私の引っ越しは、結局無意味なものとなった。
こんなことってあるのだろうか。

結局引っ越しの件を散々からかわれて、モヤモヤを抱えて過ごしていたところで久々に同期のマッちゃんことインカラマッに会った。
彼女が異動してからなかなか会うことはなかったが、久々に会った彼女は私の顔を見るなり何かを察したかのように飲みに行きませんかと誘ってくれたのだ。私はいつもより幾分も早く仕事を切り上げてマッちゃんと共に会社を出た。

「あ〜あ、まさかオフィスが移転なんて…」

「+++さん、確か近くに引っ越したばかりでしたよね。何てタイミングなんでしょう」

「まぁ引っ越し先のオフィス広くて綺麗みたいだし、マッちゃんと同じフロアで仕事できるならいっかぁ…」

「そうですね、ランチも一緒に行けますし。…お店どこにしましょうか?K町にします?」

「え、そうするとマッちゃんが帰りにくくない?それに、あんまり雰囲気よくないし…」

「私は+++さんと飲めればどこでも。それに、K町に少し興味があります」

「ふうん?」

以前より怪しげな人たちは減ったけれど、K町の夜は変わらず賑やかだ。
ゆっくり話がしたくてなるべく静かそうな店を探したが、週末ということもあってなかなか席が空いていない。探し回った末ここにしましょうとマッちゃんが見つけたのは騒がしい大衆居酒屋だった。

「いいの?こんな騒がしいところで」

「楽しそうでいいじゃないですか。私は生ビール。+++さんは?」

「私シャンディーガフ…え、ないですか?じゃあ私も生で…」

取り扱いのないシャンディーガフにがっくりうなだれ、とりあえず乾杯。
最近どうだとか、付き合っている谷垣くんのことだとか、他愛ない話で盛り上がる。

彼女は不思議な人だ。時折見透かしたようなことを言うからちょっとだけ恐ろしいけれど、とても穏やかな雰囲気が話しやすくて、私はマッちゃんがとても好きだ。

ふと、マッちゃんがいつも細めている双眸を開いて私を見つめ、こめかみに指先を当てて少し悩むようなそぶりを見せた。彼女がこういう仕草をするときは大抵何かを見透かしているときだ。

「…+++さん、最近なにか悩んでいますね?」

「えー…そういうの始まっちゃう?てかそんなにわかりやすい?私」

「そうですね、わりと昔から」

「…マッちゃんには隠し事できないなぁ」

脳裏に尾形の顔が過ぎる。話してしまおうか迷ったものの、彼の立場上あまり明け透けにするのは憚られた。
好きになってはいけない人を好きになってしまった、とだけ呟くと、マッちゃんは相変わらず伏し目がちに微笑んで頷く。

「先ほどから猫ちゃんが、+++さんにまとわり付いているんです」

「………え?へ?なに?猫?」

「最近猫ちゃんとお別れしたりは?」

「いや…猫ちゃんとはお別れしてない…あ、でもそういえば前はよく見かけてたんだけど最近は見ないなあ…」

「なるほど」

「待って待ってなになるほどって」

「+++さんは猫の帰巣本能についてご存知ですか?猫の帰巣本能にはいろんな説があって、その中のひとつに猫は太陽や星座の位置を覚えていて、そこから巣の方角を割り出すというものがあります」

「怖い!怖いよマッちゃん!」

「その猫ちゃんにとっては+++さんが太陽や星座なのかもしれませんね」

「…!」

「待ってるんですよね+++さん」

「…………」

「大丈夫。戻ってきますよ、彼はきっと」

本当に最低限の言葉だけしか伝えてないのに、マッちゃんはさも分かっているような言葉で私を安心させるのだ。
マッちゃんはにっこり笑って早々と2杯目の生ビールを頼んでいた。






「ただいま」

誰かいるはずもない、がらんとした部屋に帰宅する。
部屋に入ってすぐクリーニングの袋を被ったまま壁にかかった真っ黒いスーツに無意識に視線をやる。
尾形がいなくなって、もうどのくらい経っただろう。

ワイドショーは今日もK町で最近起こったヤクザ絡みの大きな抗争のニュースを取り上げている。
K町に住んでるんだよね、大丈夫?事件に巻き込まれたりとかしてない?
会社でも私生活でもそんなふうなことをあまりに聞かれるのでもう苦笑いでごまかすことに慣れてしまっていた。

初めからわかっていた。そもそも私はしがないOLで、彼はヤクザで
本来なら出会ってはいけなかったし関わってはいけなかった。
ほんの一時の無謀な恋が終わっただけだ。なにも落ち込むことじゃないのかもしれない。

それでも彼が、尾形が置いていった痕跡がいつまでも消えずに残っている。
尾形は確かにここにいた。もう会えない、でも会いたい、ここにいたらもしかしたら、なんて淡くて残酷な期待を私に抱かせる。

「…帰巣本能、か…」

ソファに体を投げ出し無機質な天井を仰ぎ見た。
ひとりでいると、この部屋に、街に、飲み込まれそうになる。


「尾形さん、」


会いたいよ、今どこにいるの。

まったくどっちが猫なんだか。
小さく笑って呟いて、目元に手の甲を押しやり一人になると溢れそうになる涙をぐっと飲み込んだ。



NEXT