小説 | ナノ


今日も今日とて北海道の山の中。

杉元とアシリパは夕餉になりそうな獲物を獲りに行ってしまったため、アシリパに「役に立たないからここにいろ」と強く釘を刺された白石は、仕方なく寝床と決めた森の中の根城を守っていた。

「っあ〜腹減ったぁ…あったかいお米が食いたい、酒飲みたい、あと女…」

最後に布団で寝たのはいつだっただろう…
枯れた草の上にごろりと寝転んで、白石はひとり情けなく今感じ得る全身全霊の欲望を口走る。
何処までも高い木と広がる空を見上げ、ひどく長閑な山の中で少し遠い川のせせらぎ、時折聞こえる鳥の鳴き声を聞きながら白石は微睡んでいたが、ふいに、誰かの気配を感じ取って思わず起き上がった。

「……んん?!」

白石の鼻腔をとても甘やかないい香りがくすぐる。
野草や野花の匂いではない。明らかに人工的な、それでいて甘美な女の匂いだ。
気がつけば白石は寝床の番も忘れてただひたすら香りのする方へ走り出していた。


木々を押しのけて出た先、唐突に視界が拓ける。そこは思いの外大きな川べりだった。
白石は切れた息を整えてあたりを見渡すと、いつどこから落ちてきていつからそこに根を張ったともしれない大きな岩の上に、ぼんやりした人影を見つけた。

雄大な自然の中にぽつんと女がひとり。今にも消えてしまいそうな薄い影を纏って立っている。
身じろぎひとつしないので初めはカカシかと思ったほどだ。しかし、最も不自然なのはその出で立ちだった。角隠しを被り、服は黒の裾模様の留袖。刺繍が施された金色の帯。
見るからに異様でいて、非現実的であまりにも美しいその光景に白石の全身がゾワリと粟立った。

「………花…嫁…?」

目の前に広がる光景を俄かに信じられないでいるところで、女は白石に気がついたのかゆっくりと振り向いた。女の肌は透き通るように白く、唇に引かれた紅がよりその白さを引き立てている。

「…止めないでくださいまし」

今にも逃げ出そうとしていた白石に向かって、消え入りそうな声で女はぽつりと呟いた。
届けるつもりもなさそうなその小さな声を白石は拾い、思わず動きを止める。

「な、何の話…ってオイ!?」

すると突然、女はバシャッと盛大な音を立てて川に足を踏み入れ始めた。川底は流れが速い。着物で入水などすればあっという間に足を取られて流されてしまう。それでも女は構わずにどんどん川の奥へ進んでいく。
あまりに突然のことに白石は驚いて、気がついた時にはそちらに駆け寄り、女の細い二の腕を間一髪のところで掴んでいた。

「何してんだよあんた!」

「は、離してください!どうか死なせてください!」

「いやダメでしょ?!今時入水自殺なんて流行らねぇって!」

「離して…っ!」

頑なに足を進めようとする女の腕を掴んで引っ張る。押し問答の末、女は涙をいっぱい溜めて懇願するように顔を上げて白石を見た。


あ、可愛い…


白石の頭にそんな煩悩がよぎる。先程の甘美な香りがより濃く彼の鼻をかすめた瞬間、踏ん張っていた足がつるりと滑り、女とともに盛大に川に滑り落ちた。







「っげほ、ゲホ!」


着物が水を含んでかなり重くなっている女の体を川辺になんとか引き上げ、白石もその傍にごろりと寝転んでとりあえず呼吸を整える。
角隠しは頭から外れてどこかに流れてしまったが、女は大した傷もなく水も飲んでいないようで助けられたことに呆然としている。

「…っどうして……」

綺麗に整っていた文金高島田の結髪は濡れたことでハラリと乱れて雫が滴っている。女の体はしとどに濡れ、俯いたまま唇を震わせるその姿はやはり助けられたことに納得の行っていない様子だった。

「…あんたさぁ…こんな人気のない山にわざわざそんな格好で……その体力はちょっと尊敬するけど」

「…山なら誰にも見つからないかと思って…」

よくよく見れば幸は薄そうだが、まだうら若いとても美しい女だ。
しかしわざわざ人気のない山奥を選んだあたりどうやら本気で死ぬつもりだったらしい。

「…ま、大方結婚破られでもしたんだろうけど…見たとこ着物も高そうだし、金持ちの爺さんにでも捨てられたか?」

「!」

「こんな骨も拾ってもらえねぇようなところで死ぬのはもったいないぜ」

「ど、どうして分かったのですか!」

「いやそんな格好してりゃわかるでしょ」

ひどく驚いた顔で言う女に白石は思わず突っ込みつつ、よろよろと立ち上がって水を含んでまとわりつく半纏を脱ぎ、ギュッと絞る。
そろそろ杉元たちが帰ってきそうだ。彼女をこのまま置いていっていいのだろうか。
どうにもこうにも妙な状況に居合わせてしまった白石は、まるで濡れ鼠のように小さくなっている女を見やる。
ふと、俯いていた女が静かに口を開いた。

「……家族も何もかも…全てを捨てて、大恋愛の末の結婚でした」

「…ふうん」

「でも、結納の前日に彼は私を置いて祖国のロシアに去りました。…他にも女がいたみたいで」

「なんだ相手ロシア人かよ?そりゃどうしようもねぇわ」

女の体から香る、嗅いだことのない甘い香りは相変わらず白石の鼻を擽る。
その香りに吸い寄せられるように白石が傍に座ると、女はちらと視線だけをそちらに寄越してみせた。
濡れそぼった華奢な体は今にも消えてしまいそうで、もはや白石の本能はとりあえずその存在を引きとどめたくなっている。

「…良いんです、置いて行ってください。…よもや私なんぞに戻る家なんてありませんから…」

「こんな別嬪置いて帰るほど薄情な男じゃねえよ俺は」

女は白石の言葉に至極驚いて、戸惑ったような顔をした。
ほら、死にたがりの割には優しさに絆されるじゃねぇか。
やっぱりこういうところは女なんだ、と思わず口走りそうになったのを慌てて飲み込みながら、白石はとりあえず何か話を続けなければと模索する。

「その…匂い」

「?匂い?」

「なんだ、香じゃないし…」

「…ああ…香水ですわ」

「香水?流行りもんか?」

「彼からの異国の贈り物です。ヘリオトロオプという花の香りなんですって」

この香りがお好きですか?と女は首を傾げる。

「(この子はあれだな、かなり可愛い。でも訳あり過ぎて手を出すとかそんなんではない。第一このまま連れて行ったところで、アシリパちゃんに怒られるのは目に見えてる。やはり放っておくしかない。可哀想だけど。ああでも…!)」

「…あの…?」

胸の内の葛藤に身悶えて、思わず変な顔になる白石を、女は覗き込んで訝しげに声を絞り出した。

「白石由竹!」

「っえ?」

「俺の名前。あんた、…いや、お嬢さんのお名前は?」

「………名前なんて、…」

これから死のうというのに、と視線を落とす姿が胸に閊えるようにもどかしい思いを急かす。
いいから!と声を上げる白石につられ女はようやく小さな声で+++、と呟いた。

「+++ちゃんね。そんな良い名前もらってこんなに早々と死ぬのは野暮ってもんだぜ」

「……………」

「俺、実は言うとさぁ脱獄してきたんだよ。刑務所から。脱獄王なんて呼ばれちゃって」

「刑務所…脱獄王…」

「驚くだろ?顔覚えられてるからどこに行っても逃げ回って…最近ろくなご飯も食べてないし」

「それはお気の毒に…」

「でしょ?でもこんなんでも、なんだかんだ生きてんのよ。一攫千金当てて、+++ちゃんみたいな別嬪な嫁さんもらって、なーんてでかい夢もありつつ」

「まぁ…ふふ、面白い方ですね」

なぜだろう。こんな状況で出会ったというのに、彼女の笑顔を見ただけで白石はひどく安心を覚える。
普段ならば俺が助けたのだから一夜を共にするくらい、と下心すら芽生えてもおかしくないようなものだが、不思議とそんな邪な情は湧かなかった。

それから短い時間ではあったが、白石と+++はいろんな話をした。
対人関係においての能力だけは著しく高い白石は、+++の心を少しずつ解きほぐしていく。話していくうち、+++はようやく屈託のない笑みを見せるようになった。
彼女が抱える絶望や苦痛を白石はほとんど知らないが、ここで出会ったのは何かの縁なのかもしれない。
次第に白石の思いは顕著になっていった。彼女の笑顔をもっと見たい。自分のちっぽけな言葉が彼女をほんの少しでも動かして、少しでも幸せにできるのならばどんなにいいか。それはもはや恋と同じだった。

「本当に由竹さん、面白い方」

「…+++ちゃん、さっきまで死のうとしてたことなんて忘れちまってただろ?」

「……あ…」

「ごめんな、訳あって街まで送ることはできないけど…生きて、きっとまた会おうぜ」

「由竹さん…」

「小狡いロシア人なんかさっさと忘れちまってさ。それで、俺が金持ちになったらきっと迎えにいくから。その時は俺と結婚しよう!いや、してください!」

がしっと勢いよく+++の手を掴んで白石は息巻いた。
未来に確約はないが、ここで言わなければ一生後悔するとさえ思った。
+++は驚きに固まっていたが、やがて柔らかく笑って小さく頷いた。

「…ありがとう、本当にありがとう…」

「いやぁそんな…」

「由竹さんに会えてよかった」

「…え?」

「由竹さん、どうか私を忘れないで」

+++は寂しそうに眉を下げると、白石のその手に自らの鼈甲の簪をそっと握らせた。
川に落ちた時ぶつかったのだろうか。右端が少しだけ欠けている。
え、と白石が驚く暇もなくその細い手がゆっくりと離れる。

「+++ちゃん…?何処いくんだよ、+++ちゃん…っ!!」

白石が手を伸ばした刹那、唐突に世界がぐらりと反転した。
まるで世界が二人を別つかのように、+++の体は段々と遠ざかっていく。


由竹さん。


目の前が真っ暗になる。
彼女がか細く己の名を呼ぶ声と体にまとわりつくヘリオトロープの香水の香りだけを記憶にとどめ、白石の意識はそこで突然途切れた。










「…いし……しらいし…」

「ぅう…+++…ちゃん…」

「白石!!起きろ!!」

「うおお?!」

耳を劈くような声に白石は慌てて飛び起きた。
全身はまるで水にでも落ちたかのようにびっしょりと汗を掻いている。
固まった意識のまましばらく呆然としていたが、辺りを見渡すとそこは先ほどの川べりではなく寝床と決めた森の中だった。

「ちゃんと見張ってろと言っただろう。居眠りしてる間に寝床を荒らされたらどうするつもりだ」

「あ…あれ…っ…?」

「アリシパさーん、もうチタタプ白石に交代していい?」

ピチチと鳥の鳴く声と木々が風でそよぐ中、アシリパは既に解体した動物の肉を杉元にチタタプさせていた。杉元の言葉にアシリパはいいぞと頷いて今度は白石に刃物を持たせる。

自分は川べりにいたはずだ。
しかし、今自分がいるのは守っていたはずの森の中の寝床で、自分が+++と出会っていたはずの川辺などどこにも見当たらない。いつのまに戻って来たのだろうか?その割に汗以外、体は全く濡れていなかった。

「…川は?」

「?川はもっと北の方だ」

「+++ちゃん………そうだ、+++ちゃん!どこいった?!」

「誰だよ+++ちゃんて」

「花嫁装束着て入水自殺しようとしてた、いい香りがする+++ちゃんだよ!ロシア人に結納前に捨てられてさぁ…!」

「花嫁装束?ロシア人?結納?何言ってんだ白石。ちょっと怖いぞ」

「うたた寝してる時に夢でも見ていたんじゃないのか?」

「夢じゃないもん!本当に+++ちゃんいたもんっ!」

すごい剣幕で捲したてるように言うので、アシリパも杉元も怪訝な顔をして首を傾げる。

落ちた川の水の冷たさや間近で感じたヘリオトロープの甘美な香りや+++の美しい笑顔は生々しく白石の脳裏に鮮明に残り、あれが夢だとはとても思えない。
それでも今自分は川べりなどにはいない。やはりアシリパの言う通り夢だったのだろうか。

「白石、それは?」

「……?」

がっくりと項垂れる白石の手元が何やら鈍く光ったことに、アシリパは気がついた。
その手に握られていたのは上等な鼈甲を使った美しい簪だった。なぜか右端が少しだけ欠けている。

「簪?白石こんなの持ってたか?髪もないのに」

「…まさか盗んできたんじゃないだろうな、白石…」

「っ…+++ちゃん…+++ちゃーーーん!」

「「?????」」

途端に涙を浮かべて簪に頬を寄せ、白石は咆哮を上げるかのように女の名前を呼ぶ。

そんな白石を、アシリパと杉元は相変わらず怪訝な顔で見つめていた。




後日、数日ぶりに降りた街の雑踏の中で、己の名前を呼ぶ声とヘリオトロープの香りを確信した白石は無防備にもふらふらと歩いているところを警察に捕まり、助け出したアシリパから大目玉を喰らう羽目になるのだった。