小説 | ナノ
空気が湿っている。
きっと間も無く雨が降るだろう。
男性一人を半ば抱えるようにして移動するのはなかなか大変なことで、ひとりで歩くより倍時間が掛かったものの、なんとか無事アパートにたどり着いた。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
いつにも増して顔色の悪い尾形をとりあえずソファに座らせる。
医療には詳しくない。それでも応急処置くらいならできるはずだと、付き添っていた体を離そうとしたところでふいに腕を掴まれた。
「いい」
「…よくないです、せめて応急処置くらい…」
先ほどから押さえている脇腹あたりが相当痛むようで、尾形の呼吸は荒い。
出血はそう多くはなさそうなので勝手な推測だけどその痛む箇所が折れているのかもしれない。
それでも尾形は私が患部に触れるのをとても嫌がり、頑なに首を振った。
私が患部に触れて処置することによって、結果的に「ヤクザ」である彼を「助ける」ことになるからだろう。
口には出さないが、彼はそれを憂慮している。
「…せめて血、だけでも」
掴んでいる手をやんわりと離させて、清潔なタオルを濡らし赤く腫れた口元や額に滲む脂汗を拭う。
それにはおとなしく従うその姿を見て胸がきゅっと締め付けられる思いがした。
沈黙の背後に静かな雨の音がする。何があったのかは聞けなかった。
「…なにか飲みますか?」
「いらん」
「それとも少し横になります?」
「いい」
「あ、でも下手に動かしたらだめか…」
「+++」
「なんですか?」
「…ただ、そこにいてくれ」
尾形は静かに言った,。
「それじゃ…何もできないじゃないですか…」
「会うべきじゃなかった」
「今更そんなこと言わないでください」
「……そうだな」
どこか力なく笑う尾形の乱れた髪をそっと指先で払ってやる。
尾形は伏せていた瞳をそっと開いて私の方を見た。
そこにいろ、でもこれ以上近づくな、だなんて。
なんて残酷なんだろう。虚しくて涙が出る。
「………私、ヤクザの女にはならないけど…」
「………」
「尾形さんの女にならなってもいいです」
「…ハッ」
「私、尾形さんが好き。だって、この街じゃなかったら出会わなかった」
喉の奥から言葉が溢れ出す。
涙が零れて、尾形の傷だらけの手の甲に落ちた。
息を吐き出すように笑っていた彼は、今度は真剣な表情でこちらを見やるとゆっくりと伸ばした腕で絡め取るように私を抱き寄せる。
肩口に顔を押し付けると、より濃い香水の香りが鼻腔を擽った。
ああ、この人が好きだ。
漠然とした感情が全身に渦巻く。
「お前が悪い女だったらどんなに良かったか」
「っ、」
あいかわずひでぇ顔だなと尾形は笑ってそっと唇を重ねる。
少しだけ血の味がしたそのキスが、私を現実に引き戻そうとする。
それでも私は彼が好きだ。どうしようもない感情だけがせめぎ合って、口を開けば離れたくないと零してしまいそうなのを堪え何も言わず体を委ねる。
しばらくの沈黙のあと尾形の双眸が再び伏せられていることに気がついた。
まだ血の滲む唇をそっと撫でると、尾形はより深くソファに身を沈める。
「少し休んでください。何もしないですから」
「ああ…そうする…」
徐々に強くなっていく雨が、私たちの間にある境界線なんて消してくれたらいいのに。
安堵と失望が入り混じった言い難い感情を押し殺しながら、気がつけば私も目を閉じていた。
「!」
気がつけば朝になっていた。
昨夜の張り詰めた空気がまるで嘘のように、カーテン越しに爽やかな光が差し込んでいる。
慌ててガバッと体を起こして室内を見渡す。室内はシンと静まり返り、自分以外に人の気配はない。
彼は夜明け前に出て行ったようだ。
さよならも告げず、あの怪我のままたった一人で。
私の肩から、するりと何かが落ちる。
真っ黒なスーツの上着。尾形が昨夜着ていたもの。
「尾形さん」
スーツの上に、ぱたっと涙が溢れる。
もうこれ以上踏み込めない境界線の向こう、私は体半分もその世界に入ることができない。
でも現実になんて戻れないのに。
「私、もうじゅうぶん悪い女だ」
まるで取り残されたよう。ひとり呟いた世界はとても広い。
この孤独感は、あの時公園で感じた孤独にとてもよく似ていた。
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