小説 | ナノ


『あんたが住んでる街、物騒みたいだから戸締りきちんとしなさいよ!』

朝、母から届いたメール。
朝の情報番組では、K町の繁華街で昨夜起きたヤクザ絡みの暴行事件を取り上げている。

「…ここ、駅のすぐ近くだ…」

カメラが映し出す風景に見覚えがあるのは当然だった。
私は母に、大丈夫だよと一言だけ返して家を出た。




入社して以来初めての大きな仕事がようやく終わったので、今夜は会社から程近い居酒屋でプロジェクトメンバー達と打ち上げだ。
賑やかな宴の席で、この打ち上げの幹事である谷垣くんが二次会に参加するメンバーを取りまとめている。そんなマメな姿を横目に、私はゆずレモンサワーを飲みながら二次会に対してはいまいち気乗りしないでいる。

「***は二次会どうするんだ?」

「う〜ん…」

「***!わい出らんとか言わんよな!?」

「鯉登課長声が大きいです」

谷垣くんの質問を掻き消さんばかりの大きな声で鯉登課長が言うのを軽くあしらう月島さんに苦笑いしながら、私は曖昧な返事を返す。
谷垣くんは無理するな、と優しく言ってくれた。

「***はたしか家が遠いんだったな」

「実はね、最近引っ越したんだよねえ」

「そうだったのか。どこに引っ越したんだ?」

「K町」

「K町…」

月島さんにK町の話を聞いてから極力自分から引っ越しの話はしないでいた。K町と言うと、何でそこにしたのだと大体聞かれて面倒臭くなってしまったからだ。
案の定谷垣くんは少し困惑した顔をしている。

「あのね、治安悪いって知らなかったんだよ。ただ近かったから選んだだけで」

「…大丈夫か?女性1人で、夜中とか物騒だろう」

「大丈夫だよ危ないところ行かないもん」

「今朝もニュースでやってたぞ。なんでもK町で裏社会の抗争が激化してて怪我人が出てるとか…」

「見た見た。やだよね、怖いなあ」

まあその裏社会の人に惚れちゃってるんだけどね。

そんなことは言わないまま、私はゆずレモンサワーに再び口をつけた。

職場の人たちはいい人ばかりだ。激務ではあるけど理解はあるし、こうして可愛がってくれている。

賑やかな酒の席でも、ふと尾形を思い出す。
今何をしているんだろう、ヤクザと仲間とご飯食べたりお酒飲んだりするのかな。

何とも幼稚なことを考えながら、こんな時にまで尾形のことを考えている自分に呆れる。ほとほと重症だと思った。

「すみません、やっぱり帰ります」

一次会もお開きになろうとした頃、おもむろにコートを羽織ったところでやはり鯉登課長に絡まれる。

「ないでじゃ!付き合い悪か奴じゃな!」

「***、早く行け。鯉登課長がうるさいから」

谷垣くんはお疲れさま、と微笑んでくれた。
私は皆に挨拶をして、なぜこんなに気に入られているのかわからないが「***が行かんならおいも行かん!」と酔って薩摩弁で騒ぎ立てる鯉登課長を後目に足早に居酒屋を出た。

尾形には、あの公園で出会ってから二週間ほど会っていない。
今夜は会えるだろうか。
少しの期待を胸にK町に向かう足が急ぐ。


街は変わらずに賑やかだけれど、心なしかいつもより警察の姿が多い気がする。
谷垣くんが言っていた抗争の話をぼんやり思い出しはしたが、さほど深く考えないまま早足でいつものコンビニに向かった。が、尾形の姿はなかった。

「…そんな簡単に会えるわけない、か」

何を期待しているんだか。
でも、もう一度会いたい。会って、プロジェクトが成功したことを伝えたい。
あれが励ましの言葉だったのかは分からないけれど、ちゃんと頑張れたと伝えたい。

もしかしたら、と足は自然に公園に向いていた。



公園はいつもと変わりなく静かだ。
薄暗い園内に入って、辺りを見渡すと、ブランコに人影を見つける。
電灯の灯りにタバコの煙が揺蕩っている。

「尾形さんっ」

まさか、本当にここにいるなんて。
私は逸る気持ちを抑えてブランコに駆け寄った。
尾形は気怠げに此方を見やり、すぐにまた視線を伏せた。何となくいつにも増して顔色が悪い。髪も今日は少しだけ乱れている。

「今日プロジェクトが終わったんです。大きなトラブルもなく無事に」

「そりゃ良かったな」

「尾形さんか励まし…てくれたのかは分からないですけど、頑張れました。それ伝えたくて私、」

「+++」

「?はい」

「それ以上近付くなよ」

尾形は薄く笑って、低い声で言った。
その一言で私と尾形の間に唐突な境界線が引かれる。

「え…?」

「…お前はこれ以上こっちに来るな」

「っ何でですか、私別に尾形さんがヤクザでも、」

「生きる世界が違うんだよ」


俺とお前とでは。


突然突き放された感覚に、それ以上言葉が出ない。尾形は乱暴に喫いかけのタバコを潰す。

黙って動けないままでいる私の視線が、ふいに尾形の足元に向く。
数カ所、地面の砂に痕のようなものが残っている。
電灯に照らされた尾形の手元が赤くぬらりと光ったのが見えた。

「っ!尾形、さん…血が…」

「早く帰れ」

「だめです、病院行かなきゃ!」

よくよく見れば、口元は赤く腫れて血が滲んでいる。
手には誰のものともつかない血の跡。
誰かと争った形跡が、全身に生々しく残っていた。

「病院?冗談だろ」

尾形の言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
裏社会の人間を受け入れてくれる病院があるかどうかも分からない。裏社会の人間ゆえ、迂闊に行くことができないのだろう。

「どういう意味か分かるよな」

「だって…早く処置しなきゃ、どこか折れたりしてるかも…」

「さっさと帰れ。二度と近付くな」

彼は私とは違う。

境界線がより色濃くはっきりと鮮明になっていく。
近づいてはいけない、近づけない距離。

それでも、彼を助けたかった。


「…行きましょ?アパートすぐそこだから」

「…+++、言わせるな。これ以上は…」

「嫌です、私、聞き分け悪いんで」

自然と涙がにじむ。
何の涙かは分からない。まざまざ見せつけられた互いの距離感の涙か、漠然とした切なさの涙か。

私は強引に尾形の手を引いて歩かせる。
尾形は初めこそ踏ん張っていたけれど、傷が痛むのかやがて観念したようによたよたと歩き出した。

「…私、裏社会がどうとか知らないです。たまたま怪我した人を見つけて助けた…誰かに何か聞かれたら、そう言いますから」

さすがに男性の体は重い。支えて歩くのには少し無理があるが、どうしてもこの場を離れたかった。
見えてきたアパートに目をやりながら、尾形がくく、と喉を鳴らす。

「…本当に危機感がねえな」



遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえる。

そうだ、私たちは違う世界の人間同士だ。

私はまるで何かから逃げるように、アパートに向かって足を早めた。


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