小説 | ナノ


「…本当にすみませんでした…私があの時しっかり確認していれば…」


続く繁忙の中、仕事で大きなミスをしてしまった。
上司である月島さんを巻き込んだ先方への謝罪行脚を終え、社内に帰ってきたのは20時過ぎ。
懺悔ばかり口にする私に月島さんは呆れたようにため息を吐く。

「済んだことだろう。もう謝るな」

月島さんは淡々とした調子で言いながら、パソコンの電源を入れようとした私の手を制した。

「***、報告書は明日でいい。今日はもう帰れ」

「でも、」

「お前…今日自分の顔見たか?」

「…顔?」

「クマすごいぞ」

「えっ」

月島さんが無言で指差した窓ガラスには、色濃いクマが刻まれた私の顔がぼんやり映っていた。普段美容に無頓着な月島さんが言うくらいだ、よほどひどい顔をしているのだろう。

「……***には無理をさせてる。上司の俺にも責任がある」

「っそんなこと…」

「とにかく今日は俺も帰る。電気消すぞ」

「え、ちょっ…待ってくださいよ!」

月島さんが御構い無しに電気を消そうとするので、慌てて上着とカバンを引っ掴んでオフィスを後にした。
時間は20時30分。こんな時間に退勤するのはずいぶん久しぶりだ。



実は最近、アパートの近くに小さな公園があることを知った。
お世辞にも雰囲気が良いとは言えないけれど、少し小高い場所にあるその公園は喧騒から離れるのにはぴったりの場所だった。

公園に向かうとそこには誰もおらず、相変わらずひっそりとしている。
背の高い電灯がふたつ、所在なさげなブランコを静かに照らす。座って少し揺らせば、金具がキィと軋むような音を立てた。

静まり返った空間の中、あんなに賑やかだった街がまるで消え失せ、この世界に私だけしか存在していないような、世界から取り残されたような孤独感に苛まれて、少しだけ涙が出そうだった。

ふと鼻腔をかすめる、香水の匂いとこちらを見下ろす吸い込まれそうな黒い瞳。私はその気配に気づいていたけれどそちらを見ることはしない。

「…女が一人で来る場所か?」

尾形はそのまま隣のブランコに座った。


「…よく会いますね本当に」

「俺の街だからな」

尾形はブランコに腰掛けながら、新しいタバコに火をつける。
ふわりと揺蕩う煙が鼻腔を擽る。独特な海外のタバコに香り。
私は思わず顔をしかめ、あからさまに手を振りながら「公園内禁煙・火気厳禁」の看板を指差した。

「看板見えないんですか?…悪い人だ」

「今更」

言いつつも、尾形は持っていた携帯灰皿に吸い始めたばかりのタバコを押し付けて消した。

キイイ、と響くブランコの金属音。静寂は続いている。


『危険な男だよ』


杉元さんの声が頭の中に木霊する。
でもどうしてだろう、分かっているのに彼の隣はひどく心地がいい。

「ひでぇ顔だな」

電灯に照らされた私の顔を見て尾形が吹き出した。そこそこの暗闇でもわかるほどに私の顔はひどいらしい。私は何も言わずにそっぽを向いた。

「いつもの調子はどうした」

「…落ち込んでるんですよ、ほっといてください」

言って、ハッと我に帰った。私は尾形に何を言っているのだろう。

「どうりで」

「…いや、その……」

「話してみろ」

「え」

拍子抜けして、思わず間抜けな顔で尾形を見る。
無意識だろうか、タバコを取り出そうとしていた手が止まりそのまま所在なさげにポケットに突っ込まれた。一応気を使ってくれているらしい。

「………結構大きいプロジェクトのメンバーに選んでもらったんです。大変な仕事だけどやり甲斐もあって…でも、今日大きなミスをしてしまったんです。完全に私の確認不足。手を抜いちゃダメだってわかってたのに…結果的に先方にも上司にも迷惑かけて…挙げ句の果てに気遣ってもらっちゃって…私には荷が重過ぎたのかなって、ちょっと自信なくなっちゃって…」

思い切った私の口から堰を切ったように流れ出す言葉を尾形は黙ったまま聞いている。我慢していた涙で視界がじわりと滲むのを無理やり笑ってごまかすと、いつの間にか互いの距離が縮まっていることに驚いて、思わず言葉を飲み込んでしまった。

「悪態ついたり落ち込んだり、忙しい女だな」

「…っなん…ですか、それ…」

「誰かが死ぬような仕事ならまだしも。ミスひとつで落ち込むだけ時間の無駄だろ」

励ましているんだかいないんだかわからないぶっきらぼうな言葉。

頭ではわかっているはずだ。彼はヤクザで、住む世界が違うのに。
杉元さんが、関わらないほうがいいと何度も言っていたのに。
それでも、尾形の隣はひどく居心地がいい。


「慰めてください」

突然口をついた言葉に、尾形は表情を変えないままではあるもののそのまま動きを止める。
少し驚いているようだった。

「………慰めてくれるまで、帰りません」

子供のような駄々に、隣から深いため息が聞こえる。

「自分の機嫌くらい自分で取れ」

「いやです」

呆れているのはわかっている。自分でも何を言っているのだろうと思う。
でも、普段からかわれている分、たまには私のわがままを聞いてくれてもいい。

「まぁ…泣き顔を見れたのは収穫だったか」

髪を掻き上げながら尾形は笑った。

その姿が、その声が、その笑みが、どれも全てがひどく美しい。
どく、と心臓が波打って、気がつけば呼吸を忘れていた。

泣いてませんよといつものように悪態を吐くつもりで顔を上げれば、その真っ黒な瞳に吸い込まれそうで思わず体を引いた。
ガチャリとブランコの鎖が絡まる音が響く。尾形と私、その距離はほぼゼロに近い。


『近づかないほうがいい』


警鐘のように響く言葉。


「っ尾形さ、」

「+++」


それでも
私は離れられなくなっている。

低い声で名前を呼ばれて、ギュッと心臓が締め付けられる。
唇が触れ会いそうなほど近づいた距離、思わず身を縮こめて目を瞑った。

大きな手が髪を乱すように私の頭を撫でた。
恐る恐る目を開くと、尾形はすでにブランコから立ち上がっていた。


「お前見てると退屈しない」


じゃあな、と
いつものようにそっけなく呟いて、尾形は横付けしていた高級車に乗り込み去って行った。

しばらく呆然とブランコに座り込む。
耳まで熱を持ったように、何だか全身が熱い。


離れがたいと、もっと知りたいと
心の奥で強くそう願ってしまった。

気がついてしまった。
私は、あの人に、尾形に惚れている。

伝えようのない言葉を飲み込んで、高くブランコを漕ぐ。
おそらく今きっとひどい顔をしているだろう。
20時30分のあの時よりも。


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