小説 | ナノ





今日暇なら飲みに行かない?


土曜日の17時ごろ。連絡を入れてきたのは2年前に別れたはずの元彼だった。
激務に疲れ果てて眠りこけ、土曜日の夕方なのにまだパジャマ姿のままどう返信すべきか考え込んでいる。 既読はまだつけていない。

それでも、片手はいつの間にメイクポーチを引っ掴んでいた。




気合いを入れてきたと思われたくなくて、化粧は最低限、服装も極めてラフなものに留めた。それでも、昔から彼が好きだった香水をひと吹きは忘れない。たとえそれを彼が覚えていなくとも。



「+++」

待ち合わせより5分早く着いたらしい彼は、駅の雑踏の中私をすぐに見つけて微笑み名を呼ぶ。

「久しぶり、佐一。少し痩せた?」

「どうかな、特別自分ではあんまり思わないけど…」

「…急にビックリした、元気そうでよかったけど」

「悪い、昨日こっちに戻ってきたんだ。…とりあえず行こっか」

少し痩せたような気がするけれど、変わらない笑顔だった。
人が多いからと駅の出口に促す優しい声も変わらない。

「腹減ってる?」

「んー…普通、かな。出されれば食べるって感じ」

「何だそりゃ。…あ、じゃあ彼処は?海鮮が美味いとこ。西口の」

人で賑わう駅前を歩きながら、彼は思い出したように以前一緒に行った店を挙げる。
少しだけ胸がざわめいたけれど、何てことはないもう別れたのだから、と自分に言い聞かせ賛成した。

ベニヤ板のテーブルにパイプ椅子。決してお洒落な店ではない。客で埋まれば相席になる程広くはない店内には、若い女の子の店員の活気のある声が響く。

「どう?北海道は」

「まあ…ぼちぼちかな。+++はどう?元気でやってた?」

「こっちは相変わらずだよ」

佐一はお手拭きで手を吹きつつ飲み物を待ちながら頷く。
お通しの酢の物を摘みながら、すぐさま運ばれてきた生ビールのグラスをぶつけ合った。

「それじゃあ2年ぶりの再会に、乾杯」

「乾杯。おかえり佐一」

小さな乾杯は、店内の賑やかな雑踏にかき消されてすぐ消える。
初めは少しだけ緊張していたけれど、すぐに打ち解けて前と変わらずに話し出した。


私たちは二年前まで恋人同士だった。

転勤で北海道に行くことが決まったとき、付いてきて欲しそうだった佐一。けれどわたしはどうしても決心がつかず彼とは別の道を歩む事に決めた。
空港に見送りにも行かなかったので、別れたあの日から今日まで一度も会っていなかった。

「ていうか、戻ってきてわざわざ海鮮て。北海道の方が美味しいんじゃない?」

「いいのいいの。あ、生ビールください」

気がつけば佐一はすでにビールを飲み干していた。前からこんなにピッチが早かっただろうか。私はまだジョッキに残るビールをちまちま飲みながら、彼の動作を盗むように見つめた。

ジョッキを持つゴツゴツとした指も、無造作な黒い髪も、飲んだらすぐに赤くなるところも、子供みたいな笑顔も変わっていない。

どうして今になって、一緒に飲もうだなんて。

そんな簡単な事を聞けないまま、今の仕事のこと、北海道のこと、共通の知り合いのこと、他愛ない話を繰り返す。わたしはようやく2杯目、佐一はすでに3杯目の生ビールを空にしていた。

「佐一そんなにペース速かったっけ?」

「なんだろ喉乾いてんのかな。昔は+++のほうが強かったのにね」

「ほんとだよ、大して飲めないのに白石と一緒に潰れてさ。よくお世話したわ〜」

「…その節は大変お世話になりました」

わざと慇懃に謝ってからまた楽しそうに笑った。
その笑顔が、チクチクと胸を刺す。

そうだ、意識していないからただの友達として久しぶりに連絡を取ってきたのだ。そんな事当たり前で何も落ち込む事じゃない。そこには期待も失望も何もないのに。


「+++はさ」

「ん?」

「彼氏は?今いるの?」


赤らんだ顔のまま、今度はいつのまにか頼んだチューハイのジョッキを手にしている。
至極無邪気な瞳がより深く心臓を刺す。
しばらく黙った後わたしは頷いた。

「うん、いる」

「…え、マジ?!」

「一応来年結婚しようって言ってる」


大嘘をついた。
佐一と別れてから、恋人なんていない。
作る気もなかった。佐一が忘れられなかった。

相変わらず佐一は、優しくて残酷だ。

「え〜そっか、それはめでたい!…あ、でも平気なのこういう…男と飲みとか」

「平気平気、そこまで干渉してこないよ大人だし」

私たちそんなんじゃないし。
笑いながら、思わず口をついて出た言葉に、自惚れでなければ一瞬佐一の顔が曇った気がした。

店変えようか。そう言って佐一はチューハイを勢いよく飲み干した。




それから2軒、計3軒ハシゴして気がつけば23時になろうとしていた。
わたしはどこかでストッパーが掛かっているのか、そこそこ飲みはしたものの酔いの感覚はあまりない。裏腹に数え切れないくらい飲んでいる佐一は真っ赤な顔をしてヘベレケだ。

「ちょっと佐一、大丈夫?どこまで帰るの?」

「ええ〜?あぁ、ホテル。駅前の」

「さすがに飲みすぎだよ 」

「ダーイジョブだって。…あ、スゲェ見て。星キレイ」

佐一はヘラヘラ笑って、歩道橋の途中で立ち止まり柵に寄りかかって空を指差した。
わたしも佐一の少し離れた隣に立って見上げる。たしかに霞のない空は、星がよく見える。

「ほんとだ。でも北海道の方が綺麗でしょ絶対」

「そりゃーそうだ」

「きっとすごい綺麗なんだろうね北海道は」

こんなところから見える星なんてカスと一緒だよ。吐き出しそうになったとんでもない暴言を慌てて押しとどめる。
ふと、星を見ていたはずの佐一がなぜかこちらを見ている。

「…なに?」

「+++さぁ」

「?」

「なんでそんなに離れてんの」

酔っていたはずの瞳が真剣なものになる。
ドクン、と胸が波打つ。

「…そう?普通の距離感じゃない?」

「いや普通じゃないよ。そんなに距離取らなくても」

「別にとってないよ」

「俺の隣、そんなに嫌?」

真剣な瞳で言う。
距離は佐一によって縮められる。
射竦められたように動けない。

「嫌とかじゃない、だってほらそんなにくっつく理由もないじゃん。友達同士なのにさ」

わたしたちは友達。
それ以上でも以下でもない。

「まあ…そっか」

佐一はしばらくこちらを見つめた後、苦笑してまた空を見上げた。

佐一の方を見られない。
車が走る音だけが響く。
まるでふたり、存在していないかのように。

ふうと少し大きなため息をついた佐一の方をちらと見る。
どこか意を決したようなその瞳はいつのまにかまたこちらに向いていた。

「…今からさ、酒の勢いで最低なこと言うかもしれないけど許してくれる?」

「えーどうしようかなあ」

心音が高鳴る。
まあ聞いてよ、と佐一は言葉を続ける。

「+++と別れてからさ、何回か付き合ったんだ別の女の人と」

「うん」

「でも、全然続かなくて」

「ふうん…」

「やっぱり俺、+++のこと好きなんだって」

「………」

「でも、今更どうしようもできなくて。だから今日くらいせめて一緒に酒でも飲めたらって。正直ワンチャンあるかなって…最低なこと考えてた」

赤い顔で、眉を下げて困った顔で佐一は笑う。

「でも今は、+++が幸せならそれでもいいとも思ったり」

「…佐一、」

「なあ、+++は今幸せ?」


柵にもたれ掛かって佐一は笑う。
思えば2年前も、困った顔で笑っていた。
そんな笑顔がずっとずっと、頭から離れなかった。
だから今日も、一度別れた元彼を拒絶できなかったのだ。稚拙な嘘をついて、傷つかないように予防線を張って。

バカみたいだけど、でも

でもやっぱりわたしもまだ、佐一が好きだ。
鼻の奥がツンとする。涙が出そうだ。

幸せなわけ、ない。
離れていた2年間が幸せなんて、到底思えない。


「え、そこは幸せって言ってくれないと」

「…………」

「そうじゃないと俺北海道戻れないよ」


反則だ。
佐一はずるい。
優しくて残酷だ。


「…幸せじゃない」

「え、」

「だって隣に佐一がいないもん」


だから幸せじゃないよ。


佐一は驚いたような顔をする。
わたしは泣きそうなのを見られたくなくて、いつまでも空を見ている。

「だって彼氏…近々結婚するって、」

「嘘に決まってるでしょ」

「…嘘?!」

「…嘘だよ。彼氏も結婚も全部嘘」

そう言うと、佐一はズルズルと力なく座り込んだ。その顔は酒のせいなのか他の要因なのかはわからないけれど真っ赤だ。

「うわ〜〜なんか俺カッコ悪い!」

「カッコ悪いね、結婚決まってる元カノに告白なんて結構最低だよね」

「そ、そう言われると何も言い返せねぇけど!」

「でも、ずるくて最低だけど、忘れられなかったよ」


2年間、忘れられなかった。
わたしも隣に座り込んで、小さく告げる。
暫くの沈黙の後、佐一の冷たい手がおもむろに手首を掴んだ。

2年ぶりの離れがたい温度。

「…ごめん、最低ついでにもう一つだけ…」

「なに」

「香水も、そのままだよな。2年前と一緒」


あ、やっぱり気づいてた。
そう言う前に、視界を覆うように顔を覗き込んだ佐一がキスをした。

冷たい唇。でも手首を掴む手は温かい。

変わらない。2年前となにも。


「もしよければ」

「ん?」

「もう一杯付き合ってくれる?佐一の話、聞きたいよ 」

「もちろんです」

佐一はずるい笑顔で、わたしの手を取って
立ち上がり歩き出した。
星は降るほど綺麗じゃないけど、悪くない。


「あとさ、もう一つ」

「なになにまだある?この際なんでも聞くよ」

「…もしよければ、泊まってく?」

「え …いいんですか」

「…お酒の勢いってことで許してあげるよ」




そこには期待も失望も何もないけど
残り香みたいな星だけは存在していた。

もしまた北海道についてきてほしいと言われたら、なんだかんだ言い返しながら今度こそ真剣に考えてしまうんだろう。

今度は北海道の星が見たい、なんて
最低な言い訳を謳い文句にして。