小説 | ナノ
しばらく繁忙期が続き、自宅に着く頃には22時を回る日々が続いていた。
ようやく週の終わりを迎えた頃には、アパートに着くといっきに脱力してしまってよろよろとベッドに倒れ込んでしまった。
「…今週は一度も会わなかった」
あの夜声を掛けられて以来尾形には会っていない。
仕事中、家にいるとき、気がつくと頭の片隅であの黒くて底の知れない瞳をぼんやりと思い出していた。
…なぜこんなに思い出すのだろう。たかが2度会っただけじゃないか。
そもそもこんなしがないOLに絡んで遊ぶなんて相当物好きなヤクザがいたものだと思うけれど向こうもただの気まぐれだろうから、できるならもう関わりたくない。
そう思いながらも心のどこかで息づく「尾形」の存在。
思わずそれをかき消すように目を閉じる。
それからどれほど時間が経っただろう。
地味にたまっていた疲れが出たのか、あのままうたた寝をしていたらしい。
ベッドサイドにあるスマホは23時過ぎを示していた。
「ごはん食べなきゃ…」
のろのろと起き上がり、コンビニ袋に入れたままの今日の夕飯を取り出してテーブルに置く。ふと、そこで気がついた違和感に思わず手を止めた。
「あれ…」
カバンを探す。
コートのポケットを探す。
財布がない。
「うそでしょ…?!」
誰もいない室内で焦りのあまり上ずった声を上げながら部屋中引っ掻き回してみるものの、財布が見当たらない。
コンビニには寄ったのだから会社ではない。道すがらで落としたとか、考えられない。
「カバンにしまわないでポケットに入れてて、それで…っ…」
よほど疲れていたのだろうか、大きめの長財布をコートのポケットに入れて歩いていたらしい。財布をなくせばお金も下ろせないしカードも使えない。いろいろ悪用されるかもしれない。一人暮らしにとっては致命的だ。(一人暮らしでなくてもだけど)
頭をフル回転させても一向に思い出せないので、半分泣きながらとりあえず来た道を戻ろうと部屋を飛び出した。
「ぅわっ!?」
ドアを開けた瞬間、ぶつかりそうになって野太い悲鳴が上がる。
こちらも驚いて顔を上げると、見たことのない男性が私の部屋のインターホンを押そうとしていた。
体格がよくて、無造作な髪型。なぜか顔が傷だらけだ。
いや顔だけじゃない、Tシャツから覗く腕にもところどころ傷がある。
…まさか、ヤクザ?!
私追われるようなことしたっけ!?
「ぎゃああ?!なになに誰誰?!?!またヤクザ?!」
「や、ヤクザ!?いやいやお、落ち着いて?!」
「ごめんなさいごめんなさい!怒らせたんなら謝りますから勘弁してください!」
「なに言って、…お、俺隣人です!隣の部屋に住んでる杉元です!財布!財布落としたんじゃないかと思って!」
今にも拉致されるんじゃないかと喚き散らす私を慌てて宥める男の口から聞こえた財布、と言う単語にはたと動きを止める。
確かに男の手には、見慣れたベージュのカーフスキンの長財布が握られていた。
「本当にすみませんでした…まさか杉元さんがお財布拾ってくれてたなんて…」
こないだ買ったばかりの来客用マグでお茶を飲みながら彼は笑って首を振る。
「いや、アパート入ってすぐのとこに落ちてからここの人のだろうなと思って。女の子っぽい財布だけど女の子ってこのアパートに***さんしかいないみたいだし…」
「こんなでかい財布落としてたのにも気づかないなんてどうかしてました…ありがとうございます、本当に助かりました…」
恐縮しきった私に彼はもういいって、と苦笑した。
彼の名は杉元佐一さんと言って、最近隣の部屋に引っ越して来たらしい。
傷だらけで見た目は怖いけれど、よく見たら実はとっても好青年なイケメンだ。
好青年イケメンが疲れた体に染みる。
「いやでもビックリしたよ、いきなりヤクザとか叫び出すから」
「あ…あー…それはその〜…」
「そんなもん縁がなさそうなのに…まさか、追われてる……?」
開口一番にヤクザと叫んだのが強烈だったのか、杉元さんは気まずそうに私に尋ねる。
変な誤解をされては困るので、違いますと少し語気を強めて否定したら彼はそうだよね、と苦笑して頷いた。
「ほら、ここらへんそういう系の人多いじゃないですか…最近帰り道に絡まれちゃって…」
「へえ?そりゃまたタチ悪い奴がいるんだな、カタギに絡むなんて」
彼につられるように苦笑いしながら事の顛末を話してみる。
しばらく静かに話を聞いていた杉元さんの顔が、みるみるうちに険しくなるのがわかった。
「で、その尾形さんて人。ヤクザって本当に黒塗りの高級車乗ってるんですね…」
「……***さん…『尾形』って言った?」
「え?あ、はい…」
「………尾形はダメだ」
「へ…?」
「尾形だけは関わらない方がいいよ、***さん」
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