忘れもしない、あれは偉く風の強い夜のことだった。
「此れは私の姪の+++だ」
近すぎると鶴見中尉が嗜められたので、鯉登少尉は一度姿勢を直して中尉の向かいに座った。
中尉の手が鷹揚に動いたかと思えば、その指先が指したのは見知らぬ女だった。
「どうぞよろしく」
中尉の傍に立つ女の名前は鶴見+++といった。
齢の程は鯉登少尉の少し下くらいだろうか。
さすが鶴見中尉の血を引くだけあって、偉く器量がよく、こちらをまっすぐ見据える目は薄い枯茶色をしている。凛とした佇まいの女だ。
「鯉登音之進少尉と月島基軍曹だ。仲良くしてやってくれ」
「鯉登少尉、月島軍曹、いつも伯父様がお世話になっております」
柔らかい声で慇懃に頭を下げ、笑う。
「ッ……!!」
隣で少尉が真っ赤に顔を染めたまま固まって絶句している。
ゴトゴトゴト、とまるで嵐の前兆のような強い風が窓をけたたましく叩いた。
「何ですか、生娘みたいに顔を赤くして」
中尉が懇意にしている有坂閣下が来られるというので今夜は盛大な宴が行われるらしい。
宴が始まるまでの時間待つように案内された別室で、先程から机に伏している鯉登少尉にはもはや呆れのため息しか出ない。
「せからしか月島ァ!あげん…鶴見中尉殿にあげんみごっか姪御さんがいらっしゃなんて…ッ!」
「そりゃ姪御のお一人でもいらっしゃるでしょうな」
「月島ァ!」
先程からこの調子で何と返しても同じ言葉しか返ってこない。
鯉登少尉はどうやら先程の+++さんに一目惚れをしたらしい。いつも持ち歩いている鶴見中尉の写真は、握り締めすぎてへしゃげている。
「お声を掛ければいいじゃないですか。しばらくの間こちらに滞在すると言っていたし…」
「そげんこつできんッ!」
「なぜです?まだご結婚もされてないと仰ってましたし別に構わないのでは」
「!お前、どこでその情報を…」
「鶴見中尉殿が仰ってましたよ」
…聞いてなかったな。
少尉はあーだのうーだの唸り声をあげ、相変わらず真っ赤な顔でジタバタ翻筋斗打っている。
俺に恋の忠告など出来るはずもない。ただ呆れて受け流すことしか今のところできない。
宴は盛大だった。
大きな広間に懐石と名物の魚料理。
芸者を呼んでお座敷遊び。中尉と有坂閣下は戦争の話に花が咲いている。時折有坂閣下が機関銃を取り出そうとするから女中やほかの隊員が手を焼いている。
俺は出された酒をちびちびと、酔いが回らない程度に煽りながら傍の少尉を盗み見る。
「まあ、薩摩の御生れなんですね。薩摩隼人は勇ましく男気があると聞いています」
「そげんこっ……そ、そんなことはありません!」
ぎこちない返しにも+++さんは動じない。丁寧な所作で時折食事を口に運び、笑う時はその華奢な手を口元に寄せる。
先程から他の隊員がジロジロと+++さんを見ては頬など赤らめるせいで、少尉は周囲を牽制することと+++さんに失礼がないかと、四方に神経を尖らせていて忙しい。
うまく行けばいいなどとは微塵も思いやることはないが、結ばれたら結ばれたで鯉登少尉殿には御の字だと思う。(だからといって応援するとかそんなものではない)
「…少尉殿、食事にでもお誘いしなくていいんですか」
「キェッ?!い、いきなり食事など…!急かすな!」
小声で耳打ちしたのに大きな声で返ってくるので+++さんに丸聞こえだ。+++さんは目を丸くして不思議そうに首を傾げた。
俺は仕方なく、酌をするフリをして席を立った。隣で少尉が意を決したようにごくっと喉を鳴らす。
「+++、さん、ッ!」
「はいなんですか」
「明日、非番なのでもしよろしければその…一緒に食事など…!」
「まあ、嬉しい!こちらには初めて来たのでぜひ海産物を頂きたかったんです。ぜひご一緒させてください」
「キエェ!」
背後で柔らかい声と奇声が聞こえる。
どうやら誘いはうまくいったらしい。
宴もたけなわ、酔っ払って寝てしまった有坂閣下はこのまま泊まっていくことになった。
風はまだかなり強い。
「鯉登」
中尉が有坂閣下を揺り起こしながら少尉を呼んだ。
「キェ!は、はい!」
「すまないが+++を宿まで送ってやってはくれないか。すぐの距離だが夜道は心配だ」
「ッ!勿論です!」
「伯父様、私は大丈夫ですわ。鯉登様もお疲れでしょうに…」
「問題あいもはん…!あ、いや…問題ありません、行きましょう」
少尉は外套を羽織り、手持ちの洋燈を持って+++さんを促した。中尉が此方に目配せをしている。俺は察したように頷いた。
「なぜ月島が付いてくるのだ!」
「少尉殿ひとりでは戻ってこられないかもしれませんからね」
「お前…ッ…!」
「ふふふ」
夜道、ぎゃあぎゃあと騒ぐ少尉をあしらいながら俺は2人の少し後ろを歩く。
+++さんの足元が暗くならないように少尉は大きな体を少し折って宿までの道のりを歩いている。
ビュゥッ
「っ!」
突然、強い突風が吹いて、少尉が持つ洋燈が手から離れ、がしゃんと下に落ちた。
灯がなくなった夜道はとてつもなく暗い。お互いの顔も見えないくらいだ。
「っ+++さん、大丈夫ですか?!」
「俺は大丈夫です」
「お前ではない!」
「大丈夫ですわ、心配なさらないで」
暗闇の中柔らかい声が聞こえる。
顔はよく見えないが少尉が横で安堵しているのがわかる。
「時に、鯉登様にちょっとお聞きしたいことがあるの」
少尉の洋燈を探す手が止まる。
俺の動きも思わず止まる。この暗がりのなか、+++さんは場違いなことを言い出した。こんな時に突然何を聞こうというのか。
「鯉登様、伯父様の…鶴見中尉のこといたく慕っていらっしゃるようで」
淡々と告げられる言葉。ようやく目が慣れてきたので少尉の顔を見やれば、驚いたようななんとも言えない顔をしている。
「そ、それは勿論…鶴見中尉殿はか、」
「気に入らないわね」
先程の柔らかい声が、打って変わってまるで氷のように冷たくなる。
かちゃかちゃと洋燈に触れる音がする。
俺も少尉も動くことができない。
闇のまま、+++さんの顔はまだ見えない。
「貴方がどれだけ伯父様を好いていようとも、私は伯父様の血を分けた女。薩摩風情に、伯父様は絶対に渡さない」
ザァアと強い風が吹く。
「となりの軍曹さんも、きちんと手綱を取ってもらわなければ困るわ」
まあ、せいぜい尻尾を振ってることね。
視界がパッと明るくなる。
洋燈がついた。
「…それでは、今夜は失礼しますわ。送っていただいてありがとう。明日のお食事楽しみにしています。おやすみなさい」
気がつけば宿のすぐ近くまで来ていた。
+++さんはニッコリと恐ろしいほどの美しい笑みを見せて慇懃に頭を下げ颯爽と宿に帰って行った。
「…………」
「…………」
いま見たのは、別人だったのだろうか。
とんでもない女だった。
あまりにも突然の出来事に、俺も少尉もただ呆然と突っ立っていた。
雲に隠れていた月が顔を出して辺りがわずかに明るくなる。それでも、動けなかった。
「…さすが鶴見中尉殿の姪御というか……嵌る前に本性がわかって良かったじゃないですか」
よほど衝撃が大きかったらしい、隣で固まっている少尉には上手い言葉が出ぬまま我ながら微妙な言葉を掛けてとりあえず励ます。
これはきっと宿舎に帰るなり大暴れするに違いない。とりあえず、今日くらいは多少慰めてやろう。
そう思いながら踵を返そうとした矢先、傍で小刻みに肩を震わせていた少尉がポツリと小さく呟いた。
「+++さん……」
「…は?」
「たまらん…好いちょ……」
月明かりに照らされた横顔は、かすかに赤らんで恍惚さえ浮かんでいる。風がもう一度強く吹いて、少尉の髪を揺らした。
てっきりあの本性に大きく落胆して言葉すらなくしているかと思いきや、そうではなかった。
そうだ、こいつは鯉登音之進だ。
恋敵?とも言える女を、なぜか好きになっていた。
どうやら鯉登少尉には常人には理解できない浅からぬ特殊な性癖があるらしい。
そんな確信を胸に秘め、なぜか宿の前で立ち尽くす少尉を置いて俺は先に帰ることにした。
先が思いやられる。一寸先の地獄を垣間見た気がした。