小説 | ナノ
引っ越して二週間を過ぎたころ。
冷蔵庫も買って、家具も増えた。生活自体にはずいぶん慣れてきた。
K町についたのは22時すぎだった。
駅前で酔っぱらい同士が大声で喧嘩している。私は思わず顔を顰め近づかないでおこうと体を縮こませて歩き出した。
時間が遅ければ遅いだけ街は猥雑さを増し、かつ闇が濃く深くなっていく気がする。
この街ではこれが日常茶飯事なんだろうけれど、正直そこには慣れることができない。
人の怒号は当事者でなくても聞きたくないものだ。それが酔っぱらいならなおのこと。
休みの日でも行くところといえばドラッグストアかスーパーに行くくらいで、あまり出歩かなくなっていた。
いつものコンビニで素早く買い物を済ませ、いつものように駐車場で屯しているチンピラの横を風のように通り過ぎる。
そういえばあの人とは、二週間前にすれ違ったきりだ。
深い黒の瞳。掻き上げた髪。顎の傷。
どことなく気になる、裏社会のあの人。
「(裏社会の人がそんなしょっちゅう出歩いてないか…)」
何を気にしているのか。会ったところで話すわけでもないのに。
よくわからない己の感情を振り切ってアパートに向かう道すがら、駐車場の横に小さな影が通り過ぎた。
こげ茶の猫。まだ体は小さい。子猫だろうか。
「猫ちゃん、こんなところで何してるの」
身を屈めて小さな声で話しかけてみる。
子猫は怖がることもなく、ニャァと小さく鳴いて私の指先に鼻先をすり寄せて来た。
親猫が周囲にいる気配はない。どうやら野良猫のようだった。
「こんな小さいのにひとりなの?この街でひとりなんて、君はたくましいねぇ」
顎を上げて、私の愛撫を受け入れる小さな姿に思わず口元が綻んだ。
どうせ誰も見ていないだろう。側から見れば怪しいだろうがそんなことも気にせずしばらく子猫と戯れていた。
「…餌付けするなよ、猫娘」
ふと手元に影が射して、頭上から声がする。
ふわりと香るタバコと香水の香り。
低く冷たい、でもどこか心地いい気がする声。
恐る恐る振り向いてみる。
黒いスーツ。深く黒い瞳。頬の傷。
この間、コンビニですれ違った黒服の男が私を見下ろしている。
「ヒェ!」
私の素っ頓狂な声を聞いて驚いたのか、子猫はものすごい速さで茂みに消えてしまった。
男は動じた様子も見せずに、起伏のない瞳でこちらを見下ろしている。
「こないだも会ったよな」
「(覚えられてる…!)」
「ずいぶん遅い時間に出歩いてる」
「そりゃしがないOLやってますんでっ」
「キャバじゃないのか」
「…なんですかもしやスカウトですか。お断りします」
「安心しろよ、こっちだってさすがに選んで声掛けてる」
何こいつ?!
ヤな奴!
出歩いてるんじゃないし、仕事帰りだし。しかも猫娘って。
怖いなという思いと何となくムカつくような思いが入り混じって、私は男を軽く睨みつけながら言った。
男はくつくつと喉を鳴らして小さく笑っている。
これ以上話しかけられても無視だ無視。
付き合っていられない。そう心に決めて歩き出す。
「またな、猫娘」
「さようならもう会うこともないと思いますけどっ」
「…どうだか」
背後に車のヘッドライトを浴びて、表情はよくわからないけれど
男は笑っている気がする。
「尾形、何してる」
横付けされた車の後部座席から声がした。
その声を聞くなり、男は鷹揚な動作で車に乗り込み、呆然と立ち尽くす私を残して繁華街に消えて行った。
「それは餌付けしてた***が悪い」
翌日の昼休み。デスクでサラダチキンを食べながら月島さんが淡々と言った。
してないですってば、と少々苛立ちを含めて返す。
「だいたい、隙が多いから黒服なんかに絡まれる」
「隙も何もただ猫ちゃんと戯れてただけですよ…」
「それを隙と言わないで何て言うんだ」
昨夜の出来事を月島さんに話しても、さして興味はなさそうだ。
なぜか野良猫に餌付けをしたのを注意されたことになっている。
「もうだいぶ慣れたつもりですけど、絡まれるのは勘弁です」
ぐったりと机に伏す私に、月島さんは呆れてるんだか心配してるんだかわからない顔でため息をつき、坊主頭を掻いた。
「…前から言ってるが、自分から危ないところに近づかない限りは大丈夫だろう。極力夜中出歩かないとか、戸締りしっかりするとかできることはいくらでもある」
「…じゃあ夜遅くならないように仕事量減らしてくれます?」
「それは***次第だな」
「鬼上司めぇ…」
まだK町に慣れるのには時間がかかりそうだ。今日もあの人に会わないといいけど。
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