不自由な首を巡らせてみても、視界の範囲には薄暗い地下水道が広がるばかりだった。
「ふむ、」
 茶色の癖毛を乗せた頭をもう一度凭れている瓦礫に戻し、グリーンはそっと蜜色の瞳を伏せる。これはもしかしなくとも、窮地、というやつなのだろうかと考えながら。
「さすがに三日目にもなると、腹が減る」
 旅をしていたときには平気で数日を水と塩だけで過ごしたりしていたものだが、下手にジムに腰を落ち着けてしまったからどうにも空腹は誤魔化せなかった。トキワの地下を流れる水脈の近く、地下水をくみ上げる為の水路に落ちたのがまだ救いだったといえる。飲み水には困らない。利き足である左を崩落した瓦礫に挟まれ、下半身が水に浸った状態のまま動けないとしても、シロガネの山頂で迷子になるよりは幾分もマシだろう。
 それよりも、上はどうなったのだろうか。優秀な年上の部下たちだから、トキワに紛れ込んでいたロケット団の残党狩り等と言う雑務はきっともう終わらせているだろうけれど。途中で不慮の事故とはいえ前線を離れてしまったから、心配なものは心配だった。それに、地上に置いてきた手持ちの事も。もしこのまま自分が戻らなければ、誰かいいパートナーを見つけてくれればいいのだが。誰に似たのか頑固揃いだから、無理かもしれないと思う。
 ぴちゃり、ぴちゃりと音を立てるしだれ水に耳を委ねて、全身の力を抜いた。筋肉を不必要に張っていると体温が奪われて仕方なかった。悪運ここに尽きたのかなあと我ながら馬鹿なことを考えつつ、グリーンはゆっくり体を横たえる。ぎしり、挟まった左足が悲鳴を上げた。折れているだろう、なあ。
「……眠い」
 体を水に浸したまま眠るのはただの自殺行為だと知っている。けれど何事にも諦観というものは必要だ。だから寝る。水の滴る音を聞き、やさしい羊水の夢を見ながら眠りにつく。次に目覚めるのがどこであれ、そこそこ楽しければそれでいいと思うのだ。死ぬと限った事でもなし、と、姉辺りに零せば間違いなくお小言の詰め合わせだろうことを呟いた。
 ゆるゆると下がってくる瞼に逆らわず、グリーンが眠りに落ちる寸前のことだった。今まで規則的に音を立てていたしだれ水が途端にリズムを崩した。そして、足音。水を跳ね上げて走ってくる、誰かの足音が響く。
「起きて下さい、グリーンさんっ!」
 聞こえてきたのは、悲痛な少年の悲鳴だった。聞き覚えのある声に、ふるりと頭を振る。
「――ゴールド?」
「そうです、ゴールドです。お願いだから寝ないでください、寝ちゃだめです! あなたがいなくなったらオレ、泣きますよ!?」
 睡魔にけぶるグリーンの目に、赤と白のパーカーが見えた。それから、潤んだ大きな金色の目。特徴のある黒い前髪。間違いなく、グリーンの知る後輩の姿だった。
 なんだ、もう泣いているじゃないかとグリーンは思った。
「泣くなよ。男に泣かれても嬉しくねえし」
「まだ泣いてないッス……!」
「ふうん、なら目元に大粒の涙らしきものが溜まっているのは俺の見間違いなのか。それは残念だ。心配してくれたのかと思ったのに。男に泣かれる趣味はないけど後輩の心配くらいは素直に受け取ってもいいかと思ったんだが、そうじゃないならいらないな」
「こんなときに遊んでる場合ですか!」
「遊んでねえよ、本音だ。助かった。ありがとうゴールド。――これも本音だぞ?」
 にいっと口角を吊り上げてみれば、初心な少年は怒りか羞恥か顔を赤くしながらも、ふいと顔を反らす。涙に染まった金の目が、赤く染まった目元が見える。これまで後輩の涙など何回も見てきたはずだが、今日のそれはなぜか特別に目を惹いた。何故だと考える暇もなく、ああと納得する。
「お前に心配されたのは初めてだな」
「……グリーンさんがピンチになったり弱ったりって、まずないですからね」
「いや? 今回は思いっきり不覚をとったよ。まさか弱った地盤に直接マグニチュード打ち込まれるとは思わなかったからな。もっと局地戦におけるゲリラ戦法への対処法も学ばないと駄目だって勉強になった。今度おつきみ山で実験してみるかな」
「タケシさんに迷惑かけてどうするんですか! 止せアホ!」
「先輩をアホ呼ばわりとはえらくなったもんだな」
「っ……! だから! 遊んでる場合じゃないですって!」
 口こそ挟みながらも起き上がろうとしないグリーンの様子を見て、ゴールドはまるで自分が怪我をしているような顔をする。その顔も初めてだな――と思うだけで、胸が熱くなった。ようやく乾き始めた涙の後が見て取れる頬を、撫でてみたくなった。
「――これ、退けても大丈夫かなあ」
 腕が痺れてさえいなければ手を伸ばしたのに。残念だが、グリーンの足を固定している岩に夢中なゴールドは気づいた様子もない。
「不安ならポケモンだけ出して、他所向いててもいいぞ。スプラッタにはなってないが、多少変な方向には曲がってる。骨が粉々になってるんじゃないか?」
「いや、自分の事じゃないですか。もっと痛そうにしましょうよ」
「これを見て痛くないと思うのか、お前? だったら一回眼科に行った方がいいな」
「グリーンさんがそんなんだから痛そうに見えないんですよ」
 文句を連ねる唇をなんとなしに見つめていたら、ふっと左足の重圧がなくなった。ゴールドの背後で翼を広げている巨大な鳳の嘴に瓦礫が銜えられている。
「ホウオウか、」
 光り輝く鳳を従えた少年の姿に、グリーンは知らず知らずのうちに目を細めた。なんだ、かっこいいじゃないか。この後輩はすごく、かっこいい。
金色の目に魅入られてしまうのも悪くないなと思いながら、大人しく彼の肩を借りた。







寄る辺なきこども




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