当時の俺はすこぶる機嫌がよかったのを覚えている。幼稚園に入園したお祝いにと祖父さんがくれた新品のクレヨン。姉ちゃんとはだいぶ年が離れていて、俺にはもうお下がりのクレヨンがあったというのに祖父さんがわざわざ買ってくれた、そのクレヨンを俺は大層大事にしていて、いつもカバンの中に入っていた。けれどもったいなくてどうしても使えなくて、結局、俺の使うクレヨンは姉ちゃんのお下がりだった。
 そんな日々が崩れたのは案外早くのことだった。迎えにきてくれるはずの祖父さんが少しどころじゃなく遅れてくるのは毎度のことで、夜間託児も行っていた幼稚園に甘え切って、ぐりぐりと一人で落書きをするのが俺の日課だったのだ。
 けれどその日は少し違った。一人、また一人と友達が帰っていく中で、見慣れない奴が一人、ぽつんと膝を抱えて廊下に座り込んでいた。ひょんひょんと後ろの毛先が跳ねっ返っている黒髪の男子だった。こちらを振り向いた目が一瞬だけ赤く見えた気がして、思わず俺は肩を震わせる。しかしもう一度見直した目は真っ黒だった。
「……どうしたの、おまえ」
 怯えたことを悟られないよう、つとめて気丈な声で言う。このころから俺は強がりだったのだ。笑うなかれ、強い姉貴がいれば大抵こんなものなのだ。悲しい弟根性である。
「まってる、」
「むかえ?」
「うん。かあさん」
「ふぅん」
 胸についたワッペンの色が青だったから、ああこいつサクラ組かと納得した。俺は緑でバラ組、隣の組なんだから見慣れなくても当然だ。
 先生たちは他の居残り組に一生懸命で、俺とそいつ、まるで二人だけになったみたいに静かな部屋の隅っこで俺たちは向かい合っていた。俺は教室の中から、そいつは廊下から。硝子戸一枚隔たれた向こうにいる知らない友人に、俺はすごく興味が沸いていた。
 ぽつぽつと、決して多くない口数だったけど、二人で色々話しをした。その間に、少しずつだけれども、俺は廊下に寄っていって、そいつは部屋の中へと入ってきていた。
「……クレヨン?」
「おう。かくの、すきだかんな」
「ぼくも、」
 ――すき、と小さくそいつは笑う。レッドというらしいサクラ組の友人の言葉に俺は嬉しくなって、レッドと一緒に落書きを始めようとした。けれどレッドはすぐに悲しそうな顔をして、「クレヨン、わすれてきた」と言った。
「わすれた?」
「まえのいえに。ひっこしてきたから、ぼく」
 そうなのか、と納得するのと同時に、俺はなんだかとてもモヤモヤして気持ち悪くなった。そして鞄から真新しい、買ってもらったばかりのクレヨンを取り出した。
 今になって考えても、どうしてこの時、こんな行動をとったのかまったく理解できない。わかるのはただ、このときの行動が、今後の俺たちを作り上げたといっても過言ではないだろうということだけである。
「これ、やる」
「え」
「おれはねえちゃんのつかうから、いい。レッドにあげる」
「ほんと?」
「ん。だからいっしょにあそぼうぜ」
 レッドは嬉しそうに笑った。本当に嬉しそうだった。そして俺たちは、二つのクレヨンを使って、祖父さんとおばさんがくるまでずっと、一緒に遊んでいた。



 ――以上、十年後の俺、グリーンの回想。思えばあの頃はお互い可愛いもんだった。

「おいレッド、起きろ! 遅刻する!」
「うー……」
 あと一時間、なんてすっとボケたことを言いながら、十年来の親友兼幼馴染は俺のベッドの上で丸くなった。器用にも狭苦しい部屋の中に押し込められたダブルベッドは成長期途上(そう、あくまで途上であって俺はまだまだ大きくなる予定なのだ。予定ったら予定なのだ)の俺たちにとって二人で寝ころんだところでなんの支障もない大きさである。昨日、数学小テストの追試に引っ掛かりまくって放課後の居残り常習犯と化したレッドに泣きつかれ、遅くまで勉強を見てやった結果がこれである。時刻はすでに七時半を回っている。ホームルームは八時半からだが、残念過ぎることに準備万端な俺とは正反対にレッドは今だ夢の中でうつらうつらとしやがっているから遅刻する可能性は大いにあるのだ。
「いい加減にしろっつってんだろ!」
「グリーンあさからうるさい、」
「それが恩人に対する態度か」
 ぼさぼさの黒髪をばりばり掻き毟りながら(頼むからフケと毛をベッドに落とすな)レッドは起き上がり、ううだのああだの言いながらてきぱきと準備を始める。その間に俺は、昨日のうちにレッドが用意した鞄の中身を点検した。
「って、筆箱が入ってねぇし」
 すっぽりとスペースを主張している場所に、俺は苦笑しながらも用意していた筆箱を入れた。これもまあ、いつものことなのだ。なんたってレッドは、物忘れの達人だから。

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