私と弟
十六夜の月の日、深夜の事であった。こんこん、とベランダから窓を叩く音に、聞いていたラジオのイヤホンを外し、ナナミはそっと微笑んだ。腰掛けていた鏡台から立ち上がり、カーテンを開け、ベランダへ続く硝子戸を開く。
「ただいま、姉さん」
「おかえりなさい、グリーン」
背に十六夜の月を背負い、肩に四つ足の人魚を乗せたナナミのたったひとりの弟は、目尻をしならせ緊張を解く。少し痩せた頬をそっと撫でてやり、一度、やわらかく抱擁を交わしてから、ナナミは弟を部屋の中へ入れた。あまり外に出ていては、研究所にいるだろう祖父に見つかってしまうかもしれない。
「朝に焼いたマフィンの残りがあるから、それで構わない?」
「姉さんの作るのはなんでも美味いよ」
「あらやだ、お世辞かしら」
「なんで身内に媚売らなきゃならねえんだよ。俺そこまで性格悪くない」
つん、と目つきを険しくした弟の鼻先を小突いて、朝方、隣の家の少年のために焼いたマフィンを温めた。飲み物はお茶ではなく、はちみつをたっぷりといれたホットミルクだ。
「はい、どうぞ。あついからちゃんと冷ましてね」
「きたよ、子供扱い」
「うれしいくせに、意地張らないの」
「姉さんうるさい」
意地っ張りな弟は、あまり変化の見られないちいさな手でマグカップを持った。ふう、と息を吹きかける唇はかさかさと荒れ、色と厚みが薄くなっている。そのような些細な場所で、ナナミは弟の成長を知る。変わらないことなんてない。小柄なまま、どれだけ発育を忘れようとしても、グリーンの体は少しずつ、少しずつ、前に進もうとしている。
「これ美味い。誰かにやった残り?」
「レッドくんにあげたのよ。最近、ジムで朝ごはん食べているみたい」
「あいつ昔っから朝弱かったけど、まだ直ってねえの」
「努力はしているんですって」
「ジムリーダーも大変だな、」
ここにかの赤色の少年がいれば、お前が逃げたから僕に押し付けられたんだと地を這うような声で言ったのだろう、とナナミは声に出して笑った。後進が見つかるまでの間、という契約でジムリーダーをしているらしいが、地方最強の看板を背負ってしまった今、そんな簡単に止めさせてはもらえないだろう。グリーンもそれを察したようだった。
「レッドなら上手くやるさ。俺のライバルだったんだから」
古びたオルゴールに鍵を掛け、その鍵を遠く海の向こうに放り投げたような、懐かしさにグリーンは微笑んでいた。きっと、そのオルゴールには、かつての想い出が音となって刻まれているのだろう、と、ナナミは思う。その音は、二度と奏でられることのない音だ。