いい女というのは世の中に対してストイックであるべきだ、家族がとてもよくできた人間であり、そんな家の中で育てられたシゲルは常々そう考えている、らしい。仮にも同棲相手のサトシがその事実を知ったのは、他ならぬ彼女の家族にそれを語られたが故である。
いい女というものは愛する男に素の自分を見せたりしない、女は自分を愛してくれる男の帰る家を守っていればいい、男に心配をかけて悦に入っている女などいい女ではない、シゲルは常々そう考えていて、その考えを己の金科玉条として日々を生きてきたのだそうだ。確かに、思い返してみればそのような節はある。シゲルという女性は出会った時から、すらっとした若竹のようなひとだった。家族譲りであろう外見の華やかさに対し、驚くほど細やかにサトシのことを見ていて、ちょっとした弱音を抱えていると知るやサトシが好む酒が出てくる。かといって、ずかずかとこちらの心に踏み入ってくるでもなく、酒とつまみを置いたらすぐに、ふい、と姿を消してしまう。そういう女性なのだった。寂しい、ちょっとはオレの話を聞いてくれてもいいのに、そう思わないこともないのだけれど、惚れた女に弱い自分を見せびらかして後で悔やむのは結局オレなんだよな、と考え至ればこそ、シゲルの気遣いに感謝はしても、文句を言う気にはなれなかった。
女というのは自分の素顔を晒すべきではない、いい女というのは世の中に対してストイックであるべきだ、そう信じきっているシゲルの生き方は、サトシからしてみれば随分危なっかしいようでいて、どうして今までそんな風にやってこられたんだろうと思う。しかしそこまで考えてサトシは、なんだか切ないと同時に、いじらしいシゲルがとても好きだ、そんな馬鹿みたいなことを考えてしまうのである。
「ほんっとに、うちの家系って馬鹿ばっかりっていうか、カカア天下っていうか……」
 はあ、と、朝食の白米に落ちた溜め息が、ここ数日の全てを物語っているようだった。
 シゲルとなら結婚してもいい、いやそんなんじゃない、結婚するならばシゲルがいい、シゲルじゃないといやだ、そのレベルまで切羽詰まっているサトシとは裏腹に、彼女はどう思っているのか、まったく読めない日々が続き、体力自慢であるサトシもさすがに疲れを感じていた。本人の口から聞いたわけではないけれど、女は男が安心して家を空けられるよう、薄暗い心の澱なんてものはそっと日記帳にでも刻むべきだ、男のみならず他人に漏らして殊更に心配を買うような女は男に愛想を尽かされても当然だと、どうやらシゲルはそんなことを考えているようなのだ。おかげで、どのタイミングで切り出せばいいのか、さっぱりサトシには掴めない。指輪のサイズはいくつ、ペアリングにするならシルバーにしようか、まだプロポーズもしていないというのにそんなことばかり思いつくんだから、相当オレの頭も沸いてきた、微かに漏れる薄笑いには、自嘲の色が濃い。
「――今日の夕飯は外で食べようか、サトシ」
「ぅえ、え、なんで? 珍しいね?」
「たまにはいいだろ。僕だって毎日作るのは大変なんだよ」
 ふわりと笑ってみせるそれはおそらく、自分に対する気遣いなんだとサトシは思った。気分転換にでもなればいい、何か悩んでいるようだから、そんな気遣いなのだ。
 ああ、もう、好きだ、ものすごく好き、でもちょっと寂しい、オレそんなに頼りないの、もう少し自分のことも優先してくれ――等と、喉仏のすぐ下までせり上がる言葉が、しゃんとして笑むシゲルの迫力に、ぐっと腹の下まで押し戻されるのも、割りといつものことだった。
 情けない、オレってものすごく情けない、今日の外食予定にうんうんと相槌を打ちながら、内心ものすごく項垂れた。色ボケしている親戚周りは、恋人や奥さんに対してそれはもう誠実に、あますところなく愛情を注げている分、オレなんかよりもっと甲斐性のある男なんだって評価されてもしかたない、と、当の恋人や奥さんが耳にすれば飛び上がって否定するようなことをずらずらと脳内で並べたてれば、それは早、立派な自虐である。
「ああ、そういえばねサトシ、僕が浮気をしたらどうする?」
 そこに、突然の爆弾が落ちてきた。シゲルは変わらぬ笑みのままだ。
「突っ――然だな!? どこから出てきたんだよ、その重たい話題!」
「最近、身内で流行ってるらしくて。浮気をしたらどうするか、って考えるの」
 そんな馬鹿なことを流行らせた馬鹿はどこのどいつだ、サトシは前髪をくしゃりとした。
「考えるのもいやだよ、そんなの、」
「もしも、だよ。別れたり、殴ったり、女側だとそういうのが多いみたいなんだけど」
「うわ、過激……」
「僕はちゃんと話あうから、安心していいよ」
 それはそれで、怖いものがある。ひやりと背筋に伝う汗をなかったことにして、サトシは考えた。浮気、正直その心配はいつでもしている、そう伝えたら、この柳のようにしなやかで毅然と背筋を伸ばしているひとは、どう思うのだろう。あれだけ尽くされ彼女の思ういい女を傍に置いて、それでも不安なのだ。だってシゲルは、オレに弱音を吐かない、辛い思いをさせていることもあるのかもしれないのに、それを教えてくれない、それはとても怖い。ほんの少しでもサトシが傷つけてしまった心の隙間に、誰か、別の男の甘言が紛れ込まないだろうか、そんなことを心配している。シゲルに対してだけ、オレはとんでもない臆病者なんだとサトシは思う。自分のものでいてくれる、そんな自信が、まだない。
 だから、だろう。気づいたらするりと、口から出ていた。
「結婚しようぜ、シゲル」
「うん、いいけど?」
 そしてそれはあっさり肯定され、いいけど、何だい、君のほうが突然じゃないか、そんな風に照れ臭く笑うシゲルに、ぱっとサトシは呆気にとられた。
「実は、ずっと考えてて、あー、最近、溜め息多いの、そういう理由で、なんか、うん、オレと結婚してくれたら、シゲル、オレに寄りかかってくれるのかなーって、思った」
 とぎれとぎれに、これはプロポーズとしてあまりにもひどい、自覚はあってもそれ以上、素直な言葉は出てこなかった。斯くなる上は恥こそ掻き捨てとばかりに、ぎゅっとシゲルを抱きしめて、結婚して下さいとサトシは頼み込んだ。
世間に対してストイックであるいい女は、初めて甘えた様子で涙を流している。









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