※遅ればせながらの15周年話 ※アラサー赤緑 リーグ本部にとって長年の懸案事項だった、ジョウト地方シロガネリーグが誕生した。その噂を聞いた瞬間レッドは、引退しようと、そう思った。歴史的な事だと騒ぐ世間の波に押され、これは引退するしかない、決然とした意思でそう思った。これは節目だった。 「僕もさ、長い間、最強だとか無敵だとか、原点にして頂点だとか、好き勝手、それこそ好き勝手にだよ、信じられないような尾ひれ背びれ胸びれついでにエラまでをくっつけて、夢の中で夢として語られる存在になっているわけだけれども、」 まずいインスタントの珈琲を喉の奥に流し込みながら、レッドはぼんやりとしている幼馴染に声をかける。後進にリーダー職を譲り早々と隠居の身の上になった幼馴染は、大企業でいう会長職におさまり、こうしてトキワジムの一室を我がもの顔で占領している。それでも遠慮はあるのか、幼馴染の私室にある珈琲は、格段にまずくなった。 「最強の看板は破られる為にあるんだから、そろそろ引退するべきだろうと思って」 レッドは、正式な肩書きを何一つもっていない、言うなればただの平トレーナーだった。チャンピオンだとか、殿堂入りだとか、そういうものは本来、タイトルマッチのようなものなのである。例えるなら乗馬の世界大会が不定期に開催されていて、グリーンはその第一回王者、レッドは第二回王者と、こういうことなのだろう。世界大会で優勝するのは毎年同じ人間かというと、そういうことはない。乗る馬の体調にもよるし、自身のコンディションも関係している。王者になる回数の多い人間、というのは確かに存在するだろうけれど、それだって、多い、くらいのものだ。ポケモンリーグだって同じことである。 レッドはタイトルホルダーであって、職業チャンピオンではなかった。世間はそこを誤解しているようだったが、レッドはただの一度だって職業チャンピオンになぞなったことがない。タイトルを返上したこともない。元チャンピオンという呼ばれ方は、第何回世界王者という呼ばれ方と同じようなものだ。 職業チャンピオンは色々と面倒だ、と思う。負けないことを第一に、偶に負けなければならないときがある。職業チャンピオンやジムリーダーというのは負ける為に居るのだと笑うのは、一時は職業チャンピオンになり、その後ジムリーダーに転向した幼馴染である。 「それで、僕は歴代でも最強ということになっているわけだ、」 自分でもふざけたことを言っていると思っていたら、それまでぼんやりと、紫煙をくゆらせていたグリーンが口角を歪めた。丸い爪に挟まれた、長く細い紙巻きタバコをとんとんと灰皿に叩き、伸びた灰を落としている。 「俺とお前がセキエイの王座についたとき、ホルダーは俺たちふたりだけだったな」 「でも、今のセキエイはどうだろうね。両手で数えられるくらいには、いるんだろ?」 「ゴールド、クリス、シルバー、同時代の三人をのぞいても、現在で十一人」 「そのうち、僕とお前に勝ったのがクリス、お前に勝って僕に負けたのがシルバー、お前に負けて僕に勝ったのがゴールドか」 時代はめぐっている。レッドはそれを痛感する。グリーンとともに王座に就いた時、ホルダーは自分たちふたりだけだった。 「誰も破れない壁は、破られるためにある。僕もお前も」 何人も攻略できないだろうと言われていたセキエイを十五年前に制覇した、幼馴染。すべてはそこから始まった。トレーナーの層は年々厚みを増し、シロガネリーグの職業チャンピオンに就任したゴールドの元には、他地方のタイトルホルダーが集い、四天王を構成しているということである。それでも必ず、いつかゴールドは誰かを連れて殿堂入りをすることになる、レッドは確信していた。 壁がある。乗り越えられない壁である。ならば穴を空けても進もうとする、ポケモントレーナーとは、そういう人種である。 「早々に引退したグリーンが羨ましかったよ。理由がないと、中々シロガネの亡霊を止めさせて貰えなかったからね」 「シロガネリーグはいい言い訳になるわけか、考えたもんだな」 「新しい時代の到来に立ち会えて光栄だ、私は過去の人間として、その輝きの前に影となって消え往こう。そう言って許される時代がきたんだよ」 「ご立派な言い分だ、」 「グリーンの引退会見を真似したんだ。便利な言い回しだね、これは」 肩を竦める幼馴染の指先で、灰皿に灰が落ちた。くすぶるそれを見やりながら、引退しようと決めた心が、ゆるやかに凪いでいく。 かつて、セキエイタイトルホルダーは、ふたり。レッドとグリーンだった。強さの道を示した自分たちの後ろから、壁に穴を空けたゴールド達が走ってきた。インフレだ、グリーンは笑う。何人も攻略できないだろうと言われていたセキエイを攻略した、嘘のような伝説を共に背負って夢に語られている幼馴染は笑う。インフレだ、でもそれがトレーナーの業なんだから仕方ないと、レッドも、全面的に同意する笑みだった。 乗り越えられる壁など、誰も必要としていない。穴を空けざるを得ないような、爆弾でふっ飛ばさざるを得ないような、誰も乗り越えられない壁こそ壁であり、その壁を前に、ドリルや、爆弾を本気で用意するのが、ポケモントレーナーという人種である。 「僕に勝ったゴールドに誰かが勝って、またその誰かが負けて、その誰かを負かした奴に勝つ誰かが出てくる。時代は次の最強を生み出し続けるんだろうね」 「その瞬間が、奇跡、と言われるんだ。奇なる事実を元に、歴史と小説は成り立ってる」 質素な事務用の椅子に座っていたグリーンが、足音を忍ばせてレッドの傍に寄った。鼻をくすぐるバニラの匂いは、彼が好む紫煙の香りである。ほんの少し八重歯を見せて目尻を柔らかくしならせる表情は、昔から変わらない。 「最強、お疲れ。レッド。時代の転換期と呼ばれることになる今後の人生に、ご愁傷様」 どこまでも皮肉っぽい奴だ、幼馴染を小突いて、彼が唇に押し付けてきたタバコのフィルターを噛んだ。先ほどまで彼が吸っていたそれは、半分ほど長さを減らしている。 慣れないバニラの煙を吸ったからか、呼吸が狂った。げほげほと咽る中で、ぼんやりと視界が滲んでいる。ああ、咳をし過ぎたのだ。レッドはフィルターを噛みながら笑う。 (今は唯、夢に語られる) |