学園の男子寮で最近、ひそひそと噂されていることがある。――寮のピアノ室には、幽霊がいるらしい。毎日の日暮れ時、ちょうど夕飯目当てに帰寮する生徒が増え始める時間に、真っ暗なピアノ室で幽霊は鍵盤の王様と戯れているのだそうだ。 「……それにしては、美人な幽霊もいたもんだ」 滅多に人の寄りつかないピアノ室は、噂のおかげでますます人影がなくなっていた。おかげで忍び込むのも簡単だ。ここの蝶番が壊れていて鍵がしっかり閉まらないことを知っている人間なら、もっと簡単だろう。 「後輩たちがすっげえ怖がってるよ。まだやるの?」 珍しく夕飯の後までピアノを弾いている「幽霊」に声をかけてみるけど、ちらりと視線をこちらに向けた。ゆるやかに吊り上がる口角を見るに、まだまだ続けるつもりらしい。 「二年の役目だからな。正体を確かめようって馬鹿が出てきたら譲る」 「去年のオレ達みたいに?」 「そういうことだ」 肩をすくめて見せた「幽霊」は、足もあるし体もちゃんとある。さらさら流れる茶色の癖毛も、悪い子の見本みたいに光る緑色の目も、きちんとこの世に存在する。「幽霊」の正体はオレの同室で親友の、二年にあがったばかりの彼だ。 「去年はコレ弾いてたのがワタル先輩だったしさ。なんか違和感あるよな」 「お前が巻き込まなかったら、こうして俺が弾く羽目にもならなかった訳だが」 「なんでそうやって蒸し返すんだよ、グリーンだって乗り気だったくせに」 「そうだったか? 記憶にないな」 すっ呆けたたことを言って、グリーンが鍵盤の蓋を下ろす。どうやら今日のリサイタルはこれで終わりらしい。配膳や後片づけに駆り出される一年生とは違って少しばかり余裕がある二年生身分なので、ゆっくりとオレとグリーンは食堂に向かった。 「そういや、ゴーがピアノ室の見回り代わってくれって騒いでたよ。幽霊嫌いなんだって」 「成程、じゃあ来年はあいつか」 「でもさ、ゴーってどう贔屓目に考えてもピアノ弾ける柄じゃないよなー」 「シルバーでも巻き込むか? 無理そうならこっちで心当たりを捕まえておくが」 「今年の一年に心当たりあんの」 「班は違うが、ひとりだけな」 天文部の後輩なら多分弾ける、と言うグリーンに、じゃあそっちの確保もお願いと頼む。最善はシルバーとゴールドの同室コンビをセットにして、だが、無理そうならその後輩くんが来年の「幽霊」係だ。 「一週間くらいで片付くといいけど」 「そうじゃないと困る。そろそろレパートリーが無くなりそうだ」 それでなくても弾ける曲が少ないとグリーンが零したのがおかしかった。 「早めに幽霊さん交代してもらわないと困るなぁ、それは」 毎年現れる男子寮の「幽霊」は、代々受け継がれる男子寮の伝統。新入生に黙って二年生が夕暮れのピアノ室でピアノを弾き、三年生が幽霊の噂を広める。噂の正体を確かめようとした一年生が、来年の「幽霊」になる。その一年がピアノを弾けないなら、今年の「幽霊」が責任を持って他の一年を巻き込んだり、次の「幽霊」に曲を教えてやる。 いつから始まったのかは謎だけど、少なくとも十年近く続いているらしい、妙な伝統。去年はオレとグリーンが「幽霊」を見つけて、ピアノの弾けるグリーンは今年の「幽霊」になった。 「ああ、毎日弾いているせいで指が吊りそうだ」 心底嫌そうな顔で指の関節を撫でているグリーンに、オレは曖昧に笑い返す。 こうやって毎日、「幽霊」に会いに行くだけの日暮れの時間が結構お気に入りだった――っていうのは、同室の友人としては不謹慎な感想なんだろう。 (ずっと独占したい、オレだけが知っている幽霊) |