起きてまず確認したのは、前髪をかきあげた奥に「左目」が残っているかどうかだった。
「――改めてみると、グロすぎ」
 そこには本来あるべき瞳はなく、ぽっかりと口を空けた虚ろな眼窩だけが広がっている。肉が透けて見えずに黒々と闇がとごっているのがまた、生々しさよりも不気味さを醸し出していてなんとも絶妙な具合だ。いまだ違和感を残す右腕が、びくん、びくんと痙攣する。
 左目は――黄泉と現世の境界を渡り、幽世の神を見るファイアの左目は昨夜、化け物の親玉に食われてしまった。昔からおかしなものに付き纏われているとは思っていたが、そんな大層なものだとは知らなかったから、正直、ないならないで構わないのだ。
「こんなにグロくなかったらの話だよね。学校どうしよう――」
 目と同時期に、自らの「親」を自称する神にくれてやった右腕を撫でていると、洗面台の横、籐網のラックの上に置かれたカップの中で、一つ目の小蛇がにたりと笑う。色は黒く、まるで冠を被ったかのような大きな頭部と機械的な頸部、顎から並ぶ歯は蛇というよりも、龍と呼ぶべき代物だった元の姿と比べれば、大きな赤い目玉ひとつの頭に蛇の胴体が生えている今の姿はどうにも滑稽だ。
『やあ息子よ、いい朝を過ごしたかな? そんなに鏡を見つめた所で、顔の造形は変わらないと思うけどね』
「うるさいよ、化け物のくせに」
 ファイアが自身で右腕を「奉納」した相手――天に這う大蛇の神は、器用にも蛇腹の両脇から飛び出た二本の鉤爪で肩を竦める真似をしてみせた。なんとも人間臭い蛇だと思う。
 昨日は、これを右腕に宿して戦ったのだ。そう思い出すだけで色々と吐きそうだった。昨夜から自分の右腕はこの蛇と繋がっている。人の腕ではない、神に捧げた右腕だ。
『しかし現世に出るのはかれこれ二十年ぶりだっていうのに、はあ、このお湯の感覚は変わらないなあ。気持ちいいね。まったく幽世に身を隠して長い天津の神々もこれの良さはもっと知るべきだ。そうだろ息子よ』
「息子、息子、うるさい。いつまで親気どりのつもりなのか知らないけどうざったい。っていうかそれ、誰に用意してもらったんだよ、居候」
 にたぁり、と、蛇は殊更に嫌な感じで笑った。――正確には、一つきりの目を細めた。
『僕のグリーンの娘君だよ、我が氏子殿。ブルーとか言ったかな? あの、グリーンにそっくりの娘さん』
「出ろ。今すぐに。そこから出ろ!」
『男の嫉妬は見苦しいなあ』
「うるさい! 目玉くりぬくよ!」
『はいはい。ああそうだ、左目がないと不自由するだろ。取り返す手助けをすると言いながら、お前の眼窩に眼は戻らなかったからね。特別サービスとしようか。そら、動くなよ』
「は、ちょっと、おまえどこはいっ――! こらぁ!」
 湯から飛び出した蛇か、ずるる――と音を立てて、ファイアの左目に収まっていく。
『視力は繋げてやれないけど、あるのとないのとでは周囲の対応が違う。さあ朝食にしようか、ファイア。朝は魚がいいね』
「なんでお前なんかの氏子になっちゃったのかな僕、」
 そんなこと振り返るまでもなくわかっている。そうするしかなかったからだ。左目を奪われた以上、ファイアに現世に戻ってくる手段はなかった。行き来する力である目を失ったファイアはそのまま、黄泉に取りこまれて死ぬはずだった。
「ファイアー! 朝飯出来てるからさっさと食べろ、このお寝坊!」
 彼女が、いなければ。
「ごめんブルー、今日のご飯何?」
 居候先の神社の跡取り娘であり、ファイアにとって唯一の幼馴染。甘いキャラメル色の髪の大事な子。いつものように巫女服を着てファイアを呼びにきたブルーが、怪訝そうな顔をしてこちらの顔を覗き込む。
 ああ、いつも通りだ。何もかも。昨日の悪夢なんてどこにもなかったかのように、彼女はここにいる。黄泉から自分を返すために命を賭してくれた彼女は、確かにここにいる。
 ブルーと一緒にここに帰ってきたくて、ファイアは黄泉から返る手段として幽世の蛇を選んだ。化け物の親玉を退治してブルーを守るためにはそれしかなかった。
 後悔なんてするべくもない。腕の一本くらいなら安いものだと、そう思う。
「なんだよ、いつもそんなの気にしないじゃん。どした?」
「あー、ほら、今日は魚の気分かなー、なんて、あはは」
「焼き鮭」
「へ」
「だから、おかず、焼き鮭。魚でよかったな」
「うわ、複雑、」
 もぞりと、左の眼窩の中で蛇が身じろぎし、這い出てくる。だらりと垂れたそれに、ブルーの顔が引き攣った。
「ふぁ、ふぁいあ」
「ごめんこれ、一応、僕の親っていうか、氏神、っていうか」
「あ、あう、へ、へび――?」
『こんにちはグリーンの娘君。こうして起きているときに話すのは初めまして、ファイアの氏神でグリーンの元旦那だったらいいなと思っているレッドです。こう見えても本体はもっと大きいんだよ』
 にたにたと笑う、その一言が決定打だった。きゅう――と目を回したブルーが倒れるのを慌てて抱き止め、ファイアはレッドの長い胴体を掴んで目の奥に押し込んでいく。
「なにが元旦那だよ! 付き纏った挙句に幽世に封印された、の間違いだろそれ!」
『男女の機微を知らないなあ、ファイアは』
 お前にだけは言われたくないと、幼馴染の体を抱きしめながらファイアは舌を打った。







彼岸に逢瀬



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